イギリス空軍独立の背景
そんな中で1917年初頭にドイツ陸軍は爆弾500キロを搭載して長距離爆撃を実施できる重爆撃機ゴータGIVを実用化します。ゴータGIVは飛行船よりもずっと高速な「大型の爆撃用飛行機」でしたから飛行船とは比較にならない期待を集め、しかもドイツ陸軍における航空戦の基本原則「軍用機の攻勢的用法と集中投入」を反映した構想が準備されます。せっかくの新型機を小出しに使わず、たくさん集めてどこか有効な目標に対して一度に出撃させる仕度を始めたということです。
ドイツ軍が長距離爆撃機を集中投入する先は、言わずと知れたロンドン爆撃です。新しいドイツ陸軍長距離爆撃機部隊はドイツ海軍の実施する無制限潜水艦戦と共にイギリスへの圧迫を強め、戦争から脱落させることを目的とした戦略的任務に就くことになります。その訓練は沿岸地域の航空基地でエルンスト・ブランデンブルク大尉によって開始され、乗員の錬成と機材の整備が急がれました。ちなみに「集中投入」とはどの程度の規模なのかといえば「40機以上」といったものですが、それでも一つの目標に対して爆弾20トン以上を投下でき、しかもその爆撃は夜間爆撃ではなく昼間強襲で実施できると予想されています。都市を一挙に壊滅させるには程遠い威力ですが、その使い道は十分にあったのです。
しかし、そうは言っても大型爆撃機の集中投入による戦略爆撃作戦という概念は従来のドイツ陸軍にはなく、既存のドクトリンも存在しない状態でしたから、具体的な戦術の研究は現地の部隊で乗員の訓練と平行して行われることになります。目標選定、運用基準の策定、大集団編隊飛行の戦技研究、爆撃高度の決定まで、全てが慌しく整えられたのが1917年5月でした。そしてイギリス南部諸都市を目標とした戦略爆撃作戦が6月13日に開始され、18機のゴータGIVが爆撃高度約2500mでロンドンへの昼間爆撃を実施し、期待された通りゴータGIVの損害は皆無、イギリス側の被害は162人の死者と432人の負傷者です。
飛行船による夜間爆撃に慣れつつあったロンドン市民に対しても、こうした昼間に大編隊で実施する都市爆撃の心理的効果は絶大なものがありました。工場は欠勤者に悩み、一部にはパニックが発生します。ドイツの戦略爆撃は、実は大したことの無い物理的損害よりも国民の心理的動揺という面でイギリス政府を追い詰めるようになり、そこまで行けば戦略爆撃として十分に成功の部類に入ります。
やがて西部戦線から呼び戻された戦闘機隊が邀撃体制を整えた1918年初頭以降、爆撃作戦はそれまでの昼間爆撃から夜間爆撃に切り替えられますが、機材面では爆弾搭載量1トンの4発爆撃機の配備も始まり、その威力は依然として侮れません。けれども1918年5月、イギリス本土爆撃隊はその活動を停止し、爆撃機は西部戦線の阻止爆撃と航空撃滅戦に投入されるようになります。コストに見合わないとの判断がその理由です。結局イギリス本土爆撃隊は1917年5月から27回の出撃で62機の損害を出していますが、その中でイギリス軍の戦闘機と高射砲によるものは19機でしかなく、43機は主に離着陸時の事故によって失われています。第二次世界大戦とは異なり、貧弱な降着装置とアンダーパワーで操縦の難しい大型機という技術的限界がイギリス本土爆撃隊の活動を妨げたのです。
実際に頭上に爆弾を落とされた人間にとってはたまったものではありませんが、イギリス本土爆撃作戦による物理的損害は従来の飛行船爆撃と同じように「軽微なもの」で1917年5月から1918年5月までの1年間の死者は「たったの836人」、負傷者は「ほんの1982人」という結果に過ぎません。しかし、百人、千人単位でも少数と言われてしまう市民の損害と並んで、イギリス本土爆撃はイギリスの軍事航空に大きな変化をもたらしています。それはRoyal Air Force、すなわちイギリス空軍の独立です。列強空軍の代表格で最も歴史の古い空軍の一つであるイギリス空軍は「空軍独立論の勃興」やら「航空戦思想の発展」やらとはほぼ無関係に「ドイツ軍の本土爆撃を何とかするため」に誕生しています。
イギリス空軍といえば単に歴史が古いだけでなく戦略爆撃と防空を重視した極めて独立性の強い空軍で、第二次世界大戦でもその能力は遺憾なく発揮されていますが、イギリス空軍がなぜそのように成長したのか、どうして陸軍や海軍への支援作戦よりも、より積極的かつ明確に戦略爆撃と防空を重視したのか、といった疑問の答の一つがイギリス空軍の成立過程にあることは疑えないでしょう。
この歴史的な大空軍は空軍独立論ではなく敵爆撃機の組織的邀撃作戦と内政的な理由から誕生していたのです。そのためにイギリス空軍内には空軍独立を唱えて海軍航空にも敵意を燃やすミッチェルのような煽動者は必要なく、たとえ小規模であっても戦略爆撃を実力で防ぐことができなかった経験を持つゆえにあえてセンセーショナルなドーウェの著作を待つまでもなく、イギリス空軍育ての親であるトレンチャードは経験と実績をもとに空軍育成を粛々と進めるだけでよかったのです。
12月 24, 2008
· BUN · 2 Comments
Posted in: 第一次世界大戦
2 Responses
king - 12月 25, 2008
ゴータGIVの降着装置は鉄棒で適当に作ったようで確かに心もとないですね。機首銃手も風圧が直接当たりそうで辛そうな配置です。
何を重視した空軍かという見方は新鮮でした。某国陸海軍航空隊は戦略爆撃を重視していたのに力を発揮できませんでしたが。
BUN - 12月 26, 2008
kingさん
軍事航空の歴史の中である国の航空部隊が「空軍を名乗る」ことには、一般に言われる程の意味はありません。日本は空軍独立を果たせなかったとか、アメリカでは戦後まで空軍が独立できなかったからどうした、という話は各国空軍の成立とその発展過程を調べれば調べるほど「軽い出来事」に思えて来ます。
Leave a Reply