塹壕戦を終わらせた航空戦ドクトリン2

 地上攻撃の進歩と並んで塹壕陣地の突破を容易にしたもうひとつの要因として砲戦観測の改良も見逃せません。1917年はドイツ軍観測機が無線による砲戦観測を標準化した年でもあります。観測機に搭載できる小型で信頼性の高い航空無線機が量産に移された結果、どの観測機もその情報を短縮した符丁を使いながらモールス信号で打ち出すことができるようになります。飛行機による砲戦観測というものはその連絡手段として手旗を使おうが、機体側面に並べたホルダーから信号弾を取り出して撃ち上げようが、たとえ戻ってから報告しようが、それだけで十分に画期的なものでしたが、無線機を装備した観測機がその場で大量の情報を友軍の重砲陣地へ送り返せるシステムが完成したことでドイツ軍の砲戦能力は格段に強化されます。

 精密な情報が即時に入るために試射から効力射までの手順が大きく合理化されるからです。少ない砲弾でよく当たるようになった、ということです。第一次世界大戦の「猛砲撃」は主に観測の不備を承知で行われた盲目射撃によることを以前にドイツ軍の防御ドクトリンに絡んで紹介しましたが、間接砲撃が敵より正確かつ迅速に実施できるということは、砲戦の根幹にある敵砲兵の制圧=対砲兵戦にとっても決定的な要因です。こうして難攻不落の塹壕陣地は一本ずつその牙を抜かれてゆくことになります。

 機動集中による大量投入、地上攻撃に特化した専門教育、無線装備の標準化と空中指揮、こうした新しい要因とその運用実績は塹壕陣地突破のための戦術に磨きをかけ、1918年1月には「塹壕陣地攻撃」ドクトリンが確立され、1918年攻勢を準備する地上攻撃飛行隊に配布されます。「塹壕陣地攻撃」は奇襲的機動集中のための夜間基地移動、分散と偽装を強調したもので、第一次世界大戦におけるドイツ軍地上攻撃戦術の集大成のような存在です。そして今度は機材も既存の攻撃機に加えて、全金属性で低空地上攻撃に特化したユンカースJ1の配備も始まり、その打撃力は前年を上回るものに成長していました。

 1918年3月にドイツ航空部隊は西部戦線での攻勢用に3668機を用意し、戦闘での消耗補充用としてさらに1600機の予備機を準備します。他の戦線に配備されたドイツ軍機は合計307機ですからその集中度がわかります。内訳としては35個の戦闘飛行隊、22個地上攻撃飛行隊、そして49個の観測飛行隊(無線装備の砲戦観測機が重視されていた様子が窺えますね)、そして4個の爆撃機集団がイギリス軍正面に差し向けられます。

 このとき採用された戦術は短時間の準備砲撃(一般には奇襲効果を重視したことだけが伝えられていますが、砲戦観測機の進歩によって砲撃の精度と効率が向上している点も大切)の後、地上攻撃飛行隊が予め偵察されていた敵のストロングポイントを攻撃すると同時に後方の砲兵陣地と増援部隊に攻撃を集中し、その傘の下で歩兵部隊の浸透攻撃が実施されるというものです。

 戦闘機飛行隊は砲戦観測飛行隊と地上攻撃飛行隊の活動を護衛し、戦場上空を制圧することとされ、残る爆撃機集団は敵司令部と航空基地に対して夜間爆撃を実施するという、近接支援、阻止攻撃、航空撃滅戦が組み合わされた精緻なものです。敵の前線陣地だけでなく、その後方の砲兵陣地、増援部隊、司令部、航空基地といった防御側の全縦深に対して攻撃を行ってその機能を麻痺させたところを地上軍が突破前進するという、空陸一体の協同作戦についてほぼ満点の答案が1918年初頭に提出されていたわけです。航空戦ドクトリンの発達を追うのが空しくなる一瞬でもあります。

 そうは言っても、なんとなく細部が気になるものです。たとえば爆撃機集団による夜間爆撃は実質的な効果が期待できたのかどうか気に掛かる部分です。本当に夜中に爆撃して爆弾が当たるのでしょうか? けれども史実は我々の先入観をはるかに超えています。照明弾を用いた照明爆撃戦術が既に1917年中に実施されて成果を上げており、照明担当機が投下する照明弾で照らし出された目標に対して昼間攻撃とほぼ同等の精度で爆弾を投下できる上に、敵後方へ侵入する爆撃機は前線に設置された基地局から発信されるビーコンで誘導されているという、いきなり言われても信じ難いような事実があります。既に西部戦線全域を網羅している基地局からの電波によってドイツ爆撃機は敵の後方へ侵入しても自分の機が東西南北のどちらを向いて飛んでいるか程度のことは瞬時に判別できたのです。

 第一次世界大戦中、西部戦線で発生した膠着状態は、地上部隊がどんなに勇敢かつ合理的な攻撃を行っても敵の防御陣地を突破する間に砲兵によって阻止され、増援兵力によって反撃されてしまうという、原理的な行き詰まりによって生まれています。攻撃部隊を自立行動できる小単位によって構成し、敵の抵抗の弱い部分に対してどんどん浸透してゆく戦闘群方式が採用されても、そうした小突破をやはり小規模で自立した遊撃隊が迎え撃つ対抗策はドイツ側では「弾性防御」方式として完成していましたし、連合軍もそれを採り入れながら縦深防御陣地を築城するようになっています。戦闘群方式も戦車攻撃も塹壕陣地突破の最終的な決め手ではなかったのです。ですからドイツ軍の1918年攻勢には大規模戦車攻撃が伴わず、この年後半の連合軍の攻勢は完全な戦闘群方式ではありません。

 ドイツ軍が採用した戦闘群方式は近代的な歩兵戦術がたどり着いた必然のようなものですが、それでも砲兵の阻止砲撃と増援部隊の逆襲が健全に機能さえすれば決勝要因とはなり得ません。そして砲兵陣地と増援部隊を一挙に叩ける唯一の方法は組織化された航空攻撃でしたからドイツ軍の大規模攻勢は1918年3月攻勢から第二次世界大戦末期1944年12月の「ルントシュテット攻勢」(アルデンヌの戦い)まで、一貫して大量の地上攻撃機による掩護を伴うようになります。

 1918年3月21日に満を持して開始された攻勢は極めて順調に進展します。戦場上空の航空優勢は強力な戦闘機飛行隊の集中投入と爆撃機集団の実施する航空撃滅戦によって確立され、地上攻撃機は前線に急行するイギリス軍増援部隊を路上で撃破してしまいます。ユンカースJ1のような新機材はその威力を遺憾なく発揮できた訳ですが、ドイツ軍にとってこの戦いには前年の1917年と大きく異なる点があることが段々と認識されるようになります。それは連合軍航空部隊の錬度と装備の優秀性です。ドクトリンを書き換え、教育を一新していたのはドイツ軍だけではなく、当然のように敵軍もまた同じようなことを考え、実行していた訳です。

 そのために攻勢開始からしばらく後に敵航空部隊の集中が行われて反撃が開始されるとその抵抗力は前年とは比べ物にならないことが思い知らされます。ドイツ軍が自信をもって投入した新型のフォッカーDVIIは客観的に見ても身軽で高速、上昇力に優れる上に若年操縦者にも適応しやすい第一次世界大戦最良の戦闘機でしたが、連合軍が装備していた戦闘機も更に高速なスパッドXIIIやSE5aでしたから前年のアルバトロスDIIIの頃にあった性能面での格段の優位はもはや望めません。

 けれども戦闘機の性能が伯仲したことなどは実は瑣末な問題です。深刻なのは連合軍航空部隊が前年よりも整然と、急速に、そして大規模に反撃して来たことです。もともとこの戦争は飛行機の数ではドイツ軍が圧倒的に不利なのですからドイツ軍の機動集中に対抗して連合軍もまた急速に兵力を集中させた結果、もはや避けられなくなってしまった消耗戦への移行は航空機生産に劣るドイツ軍の敗北に直結します。この攻勢以降、ドイツ軍が航空優勢を勝ち取る機会は二度と訪れず、ドイツ航空部隊の実戦力は急速に消耗しながら11月の休戦を迎えます。

 1918年攻勢とは、1917年のイギリス軍の攻勢を頓挫させたドイツ軍地上攻撃機の飛躍的な威力増大と後方への航空阻止攻撃、無線による航空砲戦観測の威力を、今度は攻勢に利用して、より徹底した新しいドクトリンによる空陸一体の突破作戦が試みられた戦いだったと言えます。そしてその攻勢が途中で頓挫した理由を一言で述べれば「連合軍航空部隊が予想より遥かに早く大量に現れてドイツ航空部隊の手に負えなくなった」ということです。

 陸戦指揮官達を長い間悩ませていた互いの塹壕陣地の突破方法はもはや両軍の陸戦指揮官にとって明確になっていましたから、ドイツ軍にできたことは連合軍にもできるようになります。新参者のアメリカ軍航空部隊でさえ地上攻撃機とはどんな装備のどんな機体であるべきか、砲戦観測とはどうやって行うものなのか、といったことを理解するようになり、今度はドイツ軍の塹壕陣地が連合軍の激しい航空攻撃に曝されて比較的容易により少数の犠牲で突破されるようになります。1918年の戦線がそれまでになく流動的になる大きな理由の一つはこれなのです。

12月 23, 2008 · BUN · 10 Comments
Posted in: ドクトリン, 第一次世界大戦

10 Responses

  1. fff - 12月 23, 2008

    なるほど、航空機生産力の圧倒的な差と、
    航空機の働き。

    この二つの情報こそ、互いに精緻を極めた陸戦
    の決着が何故付いたかについての、もっとも単純
    な説明になりますね。

    今回のコラムの技術情報を調べる術を私は持ち
    ませんが、この二つが機能したなら、戦いの結果
    は、これだけでもうああなるしか無かったと考えて
    間違いないのでしょうか。

  2. ヤマザクラ - 12月 23, 2008

    第一線から策源に至る全縦深を同時的に打撃・拘束・・・
    ソ連の理論家たちの教条が、
    1917~18年の西部戦線に見出されようとは・・。
    WWI末期は、現代戦の胚胎どころか、現代戦そのものだったんですね。

  3. きっど - 12月 23, 2008

    なるほど、WW1の時点でこれほどまでに航空機が戦局を左右していたのであれば、ルフトバッフェが禁止されたのも当然ですね。
    そして、WW1時には圧倒的であったフランス航空産業の戦間期における壊滅が、電撃戦の勝因だったと。

    >ヤマザクラさん
    全金属製・単葉・ジェット・超音速と航空機が進歩しようと、やってることは複葉羽布張り木製レシプロ機時代と変わっていないとは・・・。
    決定的に変わったのは核とヘリコプターくらいでしょうか? もっとも核の方はロケットに乗って航空機の分野から飛び出してしまいましたけど。

  4. BUN - 12月 24, 2008

    fffさん
    何でWW1のドイツ軍は戦車を軽視しているのだろう?どうして1918年にもなって突破作戦ができたのだろう?といった疑問に答える出版物が国内に無かった、というのが全てのように思えます。

    ヤマザクラさん
    そうですね。逆にWW2のドイツ空軍があの程度だったのは何故なのか、という疑問が湧いてくるかもしれません。

    きっどさん
    戦間期の各国空軍の動静は地味ですけれども面白い分野です。御賢察の通り、それが後の戦争の結果を決めているからですね。

  5. ヤマザクラ - 12月 24, 2008

    >きっどさん
    同感です。核戦略もドゥーエの教義の末裔と捉えることもできますし・・。
    BUNさんのブログを拝読していると、
    作戦を支える構造というかアウトラインは、
    一次大戦末期も、今日のエアランドバトル等も、
    大きくは変わらないような気がしてきます。
    (細かい技術・戦術は見違えるほど進歩していますけれど)

  6. uuchan - 12月 24, 2008

     勉強になります。WWⅠがこんなにすごいものだったとは知りませんでした。塹壕で対峠し大量砲撃で無為な消耗も繰り返して士気が停滞したという「西部戦線異状なし」のイメージでした。
     こういう戦場に参加しなかった日本が、いろいろ工夫して戦車とかを造っても、なかなか軍事技術が進まず、その中で情報を得ていた統制派が改革を目指したのはある意味当然(当事者の焦り?)だったのかもしれません。

  7. fff - 12月 24, 2008

    WWIは、生産力の面はあまり具体的に描かれて
    居ない面があるので、このあたりの話は、もっと
    大きく扱われるべきですね。
    資料なども、もっと一般に出てきてほしいです。

    にしても。
    逆説的に言うと、前線で航空機が開けた穴を、
    歩兵浸透では十分に広げられないと、前線にいた
    あの人とかその人は思ったのでしょうか。
    等と思ってしまいます。

    でも、数ヶ月でやり返される所までは、前線では
    見えなかったのでしょうか。

  8. BUN - 12月 25, 2008

    uuchanさん
    「西部戦線異状なし」には飛行機や戦車がもはや馬鹿にできない敵となり戦闘の様相が変って行く様子を描いた部分があります。意識して読むと「ああ、これはこんなことなのか」と納得できます。

    fffさん
    ww1の航空機生産については本ブログの話題が及んでいない大きな穴があります。お察しのこととは思いますが、それはアメリカの存在です。いかに無責任な四方山話とはいえ、これは避けて通れませんよね。

  9. king - 12月 25, 2008

    塹壕陣地の突破方法はこの時点では存在せず、戦車と航空機の発達を待たないといけなかったという理解でした。また勉強になりました。

  10. BUN - 12月 26, 2008

    kingさん
    全金属製地上攻撃機、ユンカースJ1の装甲部はエンジンから前席、後席を包む鉄の箱のような雰囲気です。まさに空飛ぶ戦車ですね。木と布の飛行機というイメージからは程遠い異様な飛行機です。

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