第一次世界大戦ドイツの航空戦ドクトリン2
第一次世界大戦が始まった1914年夏にはまだ攻撃用途に投入できる十分な性能の軍用飛行機が配備されていませんが、飛行機は偵察と砲戦観測任務には十分な活躍を示します。偵察、砲戦観測という「古い任務」による貢献だけでもヒンデンブルクをして「飛行機が無ければタンネンベルクの勝利はあり得なかった」と言わしめたように陸戦にとって極めて重要な支援兵器であることが認識されます。
けれども、「タンネンベルグ」や「マルヌ」以降、飛行機の活躍は精彩を欠いてしまいます。1914年終わりからの西部戦線全域にわたる戦線膠着が「塹壕戦」を生み出したからです。それまでの運動戦には機動力のあるドイツ陸軍の飛行機部隊は縦横無尽の活躍ができましたが、両軍が互いの塹壕線に拠って対峙してしまうと偵察機の出番は確実に減ってしまいます。そんな状況で、ドイツ陸軍は敵後方深くへの戦略爆撃に手をつけ始めますし、前線では偵察機以外の爆撃機、戦闘機の姿が見られるようになります。ドイツ軍も連合軍もどちらも爆撃機を活動させるようになるのが1915年の特徴です。そしてその爆撃機に対する第一の防御手段が戦闘機でした。一般的に戦闘機は敵機の妨害に使われ始めた特殊機だった訳です。
そして戦場に姿を現した戦闘機を大量かつ組織的に投入することで敵軍飛行機を友軍上空に飛行させないようにする構想が実行に移されたのが1916年のベルダン戦です。敵味方に大きな犠牲を強いたベルダン戦では空にも激戦の様相がありました。ドイツ戦闘機編隊は友軍砲兵観測機が自在に飛びまわれるよう、集団で定期的な制空飛行を実施して航空優勢を実現しようと試みます。一方的な砲戦観測を実施できれば友軍砲兵のみが圧倒的に精度の高い砲撃を行えるのですから、撃たれる側はたまったものではありません。
ただちに対策を採らねばならないフランス軍は非常に素早く結論を出します。優秀なドイツ戦闘機隊に勝利することは難しいが、正面対決を避けるのは容易だと気づくのです。フランス軍飛行機はどの空域でもパターンの固定したドイツ戦闘機隊の制空飛行の裏をかいてほぼ自由に活動するようになり、戦闘機集団による航空優勢確立というドイツ軍の試みは破綻してしまいます。後知恵で言えばパターンが固定していても濃密に制空飛行ができれば良いのですが、1916年の段階でそれを実行するだけの兵力集中は無理があっったことでしょう。
そうした大規模作戦が実施できるようになるには、兵器の数だけではなく、作戦を支える組織面での躍進も重要です。1916年はそうした年になります。今まで、独立空軍の特徴ともいえる構想を生み出して、そのいくつかを実行に移して来たドイツ陸軍内には、当然のように「空軍独立論」が生まれます。しかしドイツ陸軍の飛行機部隊を独立させるという要求は陸軍参謀本部の強い支持を得ることができてもドイツ海軍の猛反発によって頓挫してしまいます。
陸軍参謀本部は飛行機部隊が陸戦で極めて重要な存在となっていることを肌身で感じていましたし、大規模集中を実現するためには独立した組織が必要であることにもある程度の理解があったようです。なにより新生ドイツ独立航空部隊中枢は参謀本部の同僚達で構成されるのですから余計な心配もありません。第二次世界大戦前の空軍再建時にマンシュタインが空軍の中枢へ赴きかけた事例が思い浮かびます。第一次世界大戦時の航空部隊はたとえ独立組織となっても、もあくまで陸軍の戦略部隊として許容できる範囲の存在でした。
けれどもそれは海軍から見れば陸軍と親しい第三の軍が生まれることを意味しますから反発して当然といえば当然でした。欧米諸国で独立を果たした空軍は何処の国でも概ねそんな力関係の中にあります。
12月 15, 2008
· BUN · 2 Comments
Posted in: 第一次世界大戦
2 Responses
king - 12月 16, 2008
ルフトバッフェはヒトラーとゲーリングが強力なリーダーシップで創設したみたいに言われますが、こうしてみると第一次大戦時には先進的な空軍が存在していて素地はあったという事ですね。
BUN - 12月 16, 2008
そうですね。ほぼすべては陸軍の組織内で出来上がってしまっている様子です。私は名目上の「空軍の独立」なんて大したことじゃないと思っていますが、「独立空軍」や「戦略爆撃」といった言葉はとかく誤解されがちですね。
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