航空機生産から眺める第一次世界大戦 (2)
第一次世界大戦の航空戦が早くも消耗戦の様相を呈していたことを紹介しましたが、それでは航空消耗戦、航空機生産競争に完敗したドイツ側はどのように考え、行動したのかを知りたくなります。1916年度にほぼ結果が出ていたのであれば、なぜ1917年中に戦争が終わらなかったのか、さらに1918年春にはドイツ軍が大攻勢に出ることさえ可能だったのはどうしてなのか、疑問は山積みです。
戦時航空機生産でフランスに対して劣勢に立つ可能性は実は開戦前から十分に予測されていました。ドイツにとって自国内の航空機工業が巨大飛行船の建造以外の分野で大きく遅れをとっていることは明らかでしたし、開戦後に資源調達で苦労することも予測されています。そのために機種の標準化が早くから検討されてタウベ機の転換生産が大々的に進められていたのですが、軍用飛行機用発動機の生産もタウベと同じくオーストリアで開発されたフェルディナント・ポルシェ設計による水冷直列6気筒ダイムラー発動機をドイツ国内で集中的に転換生産することで航空発動機生産を促進しようと考えます。
ダイムラー製水冷直列6気筒への極度の集中政策があればこそ1916年度までの機体生産に発動機生産をギリギリで間に合わせることができたということですが、当然、マイナス面があります。フランスが大馬力発動機の開発と量産に成功した戦争後半、ドイツ戦闘機の性能が常にその速度面で見劣りするのは直列6気筒発動機の性能が限界に達していたからです。アルバトロスDIIIやフォッカーDVII(BMW6気筒)の水平最大速度が連合軍戦闘機よりちょっとずつ遅くて何となく悔しい気分になるのにはそうした理由があります。より大馬力の8気筒発動機計画もあり、一部は生産に入っていますが、8気筒発動機の量産は軍用機マニアにはお馴染みの「クランクシャフトの切削困難」に直面します。標準化政策の下で6気筒発動機に特化したドイツ航空機工業にとって、現代でも困難な部類に入るクランクシャフトの機械加工を6気筒用から長大な8気筒用に切り替えて大量生産を実行することは事実上不可能だったのです。そして空冷ロータリー発動機については「模倣以外に良い設計が無い」という基本的な問題があり、最後までパッとしません。
それでも巨大飛行船を連続建造できたドイツ航空機工業の機体製造技術はフランスを凌いでいましたから、軍用機の機体構造ではフランス、イギリスより一歩先を進んでいます。アルバトロスが美しい合板モノコック胴体を持っているのも、ユンカースが全金属製軍用機を量産に持ち込めたのもドイツの機体製造技術の優秀性を示す事例の一つです。発動機の性能が連合軍より少しずつ悪いという悪条件を優れた機体製造技術で補って戦力を保っていたのが第一次世界大戦におけるドイツ軍用機の姿だといえます。
しかし発動機の生産と性能面での問題を機体製造技術で補うとはいっても、そこに限界があるのは当然で、もう少し次元の高い工夫が必要になります。それは軍用機運用ドクトリンの工夫を意味します。先に紹介した通りフランスに対して軍用機生産で劣勢となることは予想されていましたから、ドイツ陸軍参謀本部はフランスに対して優位に立つためには軍用機の運用をフランスとは異なる形で確立しようと考えます。そしてドイツ陸軍参謀本部はフランス陸軍の軍用機運用ドクトリンを研究した結果、フランス陸軍が航空機を主に陸戦のための戦略的または戦術的偵察任務に用いることを第一に考えていると正しく判断します。
その結果、ドイツ陸軍参謀本部は戦場で航空機を攻撃任務に積極使用するという方針を打ち立てます。1914年の開戦までにドイツ陸軍は軍用機の機種と任務について具体的構想を固め、長距離偵察機、短距離偵察機に加えて爆撃機、地上攻撃機をも構想します。第二次世界大戦で登場した軍用機の機種と運用構想は既に第一次世界大戦前のドイツでほぼ網羅されていたのです。そして「攻撃的任務に航空機を積極使用する」という方針が生み出した決定的な概念は軍用機を攻撃する軍用機、すなわち戦闘機の概念です。
開戦当初、互いの任務に敬意を払い、敬礼してすれ違ったといわれる空の戦いの序章に漂うロマンチックな雰囲気はつかの間の幻想でしかありません。開戦後約1年を経過したころ、軍用飛行機生産が軌道に乗り始めると敵飛行機を攻撃するために速度と運動性に優れた機体が量産に移され、空の戦いを一気に変貌させてしまいます。フォッカー単葉機が戦場の空に投入され、インメルマンターン等の新しい戦闘技術と共に連合国の軍用機を窮地に陥れたのは偶然ではなく、航空機生産の劣勢挽回を目的として戦前に確立された運用ドクトリンがようやく専用機材を得て実施に移されたことで生まれた変化なのです。
さらにもう一つ、ドイツ陸軍が生み出した画期的な概念があります。それは航空部隊の機動集中です。総兵力で劣勢であっても重要局面で優勢であればよい、との判断からドイツ軍用機に随伴する地上支援部隊は完全機械化が標準とされます。飛行機を必要とする戦場へ素早く移動集中し、補給と整備を行える自動車化された専門部隊をドイツ航空部隊は最初から持っています。この機動集中構想は開戦後も発展し、ドイツ航空部隊をその兵力以上に手強い存在に育て、1917年4月のアラス上空で戦われた一連の航空戦でもイギリス軍が集中的に投入した戦闘機兵力に対抗できる兵力を短期間で集中、アルバトロスDIIIの性能面での優位も大きく手伝ってイギリス軍に大打撃を与えます。これが「血まみれの4月」事件の実相です。
「飛行機は地上軍を放置してどこを爆撃しているのだ?」と文句の出る戦略爆撃、「叩くなら直接敵地上軍を叩いてくれなきゃ困る」と不満の出る航空撃滅戦、「我が軍を残して他の戦区に行ってしまうのか?」と嘆かれる機動集中作戦は地上軍指揮官が忌み嫌う作戦です。けれども、そうであるが故に独立空軍の特徴とも言える概念が開戦前のドイツ陸軍で「来るべき戦争に於いて航空機生産で優位に立つであろうフランス軍に対抗するために」誕生していたとは、ちょっと信じ難い話ではありますが、まあ、おおむね事実は事実だと言うことで今日は終りです。
毎度くどい話ですが、まだまだ続きます。
12月 11, 2008
· BUN · 5 Comments
Posted in: 第一次世界大戦
5 Responses
king - 12月 11, 2008
大抵の空戦ゲームはインメルマンターンだけでクリアできてしまう偉大な技です。
発動機の不利を機体設計と運用ドクトリンで補う。某国の陸海軍航空隊と同じ事情だったんですね。
航空隊が機動集中するのは良いとして飛行場大隊が完全機械化されていたというのは目から鱗です。ロバや牛車で移動しているものだと想像していました。
1GB - 12月 12, 2008
RC飛行機の練習順位で、インメルマンターンは大きなステップです。
水平左旋回→水平右旋回→ループ→ロールときて、その次がインメルマンターン。それまでの機動は自動車と感覚的に変わらないのですが、ここから飛行機たる3次元機動の基本に入ります。
右側に舵を切ると左に回り、エレベーターを引くと上昇ではなく下降する…。トップハットやキューバンエイト、コブラなど、インメルマンターンの応用機動は幅広く、初めて大空を自由に飛び回れるようになっていきます。
憶えたての頃は、その楽しさから何度も繰り返したものでした。
BUN - 12月 12, 2008
kingさんはフライトシムの方ですか。
そして1GBさんはRC機の熟練操縦者。
どちらも面白そうですね。
1GB - 12月 16, 2008
どこでお会いしても脱線気味でご迷惑をおかけしております。
既製品でなく、自分でRC機を設計すると空力の妙を味わえます。
プロペラが反時計回りに回転することから、
左旋回は小回りが利き、浮力が強い状態で安心して回れますが、
右旋回は巻き込み気味で、油断すると高度を落として恐い思いをします。
第二次大戦中の空母の艦橋が右側にあった必要性は、
RC機を飛ばしてみるとリアルに理解できますね。
BUN - 12月 16, 2008
空母環境の右舷、左舷への配置の揺れですね。
これはこれで詳しく調べると面白いんですが、そうしたことを実感できるRC機趣味は実に面白いですね。
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