「軍事鉄道」横須賀線の建設経緯
明治十九年、海軍大臣西郷従道から陸軍大臣大山巌宛の文書にその建設目的が記されていますが、それによれば、従来海からの補給路しか存在しなかった横須賀軍港と観音崎砲台への陸上輸送路を確保する必要から汽車鉄道の敷設が求められたことがわかります。海上輸送路のみの状態では、「戦時に敵艦が東京湾内に侵入した際」に横須賀、観音崎が孤立することへの懸念と、さらに観音崎砲台の背後にあたる長井湾が上陸適地であるため、敵兵上陸の際に陸兵を即時投入できるよう「横浜または神奈川から横須賀、観音崎近傍への汽車鉄道敷設」が検討されています。しかし、この長井湾(油壺の北、葉山の南です。)敵兵上陸への対応の件はどうも海軍が陸軍の了承を取り付けるための方便のようにも響く文面でもあります。
このように横須賀線の着想当初は横浜または神奈川からの分岐線というものだったようですが、これが具体化し始めると東海道線からの分岐は戸塚、藤沢間から行うこととなり、現在の横須賀線の経路が確定します。その最大の理由は予算不足のようです。
「陸軍省送達 送甲第一七八〇号 横須賀鉄道の線路を東海道鉄道戸塚藤沢両駅間に起し左折、鎌倉に出て長浦港を経て横須賀に入り水兵屯営構内を横切り水兵屯営の東南に止むるものと定め、費額に限りあるを以て当分市街を貫通することは計画せざる旨、図面相添照会の儀は異存無之候此段及御回答候也。 明治二十一年十一月三十日 海軍大臣伯爵 西郷従道 陸軍大臣伯爵 大山巌 鉄道局長子爵 井上勝殿」
鉄道局からの「横浜方面からまっすぐに南下したいだろうけれども予算が無いので鎌倉北方から分岐線を引き、目標の観音崎には遠く及ばないけれどこれで当分我慢してくれ」という相談に対して海軍から「鉄道を敷いてくれるならとりあえず我慢する」との回答があったということで、半島沿岸に遊弋する敵艦からの砲撃を避けて山間を行く要塞鉄道どころではなく、 横須賀への補給路としてはとりあえず機能するけれど、長井湾への陸兵輸送には使えない鉄道として完成した、単なる予算不足の最短路線だった訳です。
残念なことに「洋上からの砲撃を避けるために山間を行く要塞鉄道」というイメージはロマン過剰のようですね。
12月 1, 2008
· BUN · 4 Comments
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4 Responses
ペドロ - 12月 1, 2008
>洋上からの砲撃を避けるために山間を行く要塞鉄道
同じ年に陸軍が出した「鉄道論」などこの理論で書かれているようですが、大山が特にこだわりを見せていないことからして、実は陸軍内でも現実派がいたということでしょうか?
1GB - 12月 2, 2008
仕事で八王子周辺の取材を続けています。
第二次世界大戦当時、当地は軍需工場の疎開先の1つでした。
機織工場の中には潜望鏡を作っていた工場もあったそうです。
同じく疎開先だった諏訪は、戦後エプソンが生まれましたが、
八王子の方は元の織物に戻ってしまいました。
ちなみに若い女工さん達は、憶えも早く手先も器用だったので、
出来上がった製品(レンズ)は好評だったといいます。
本当は平和な機織りがしたかった経営者たち。
それでも、意地になって良質なものを追求したそう。
光学機器に「タカン」の愛称を付けていたと聞きます。
「タカン」の「タ」は「多摩」から取ったそうです。
BUN - 12月 2, 2008
ペドロさん
そもそも東海道線は平塚から国府津まではまったくの海沿い路線です。時代は下りますけれど大正年間の観音埼方面への延長計画は走水の海岸沿いをのんびり観音埼に向かうコースが検討されています。
数々の鉄道伝説と同じようにその実態は乏しい予算との闘いなのでしょうね。
1GBさん
お仕事ご苦労様です。
八王子近辺でしたら中島飛行機の地下疎開工場が高尾にありましたね。繊維関係の工場の軍需転用はその会社の社史を調べると意外によく記載されていることがあります。本当に何を作っていたのか、どこの会社の何を下請けしていたのか、といった結構大事なことが個人の回想からは抜けてしまうことが多いので気をつけています。
king - 12月 10, 2008
観音崎配備の要塞砲の弾薬補給方法は以前から疑問に思っていたのですが、横須賀線で途中まで運んで牛車に積み替えてという所でしょうか。
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