軍事費は何処から出たのか?

 ポーランドとフランスは独立直後からの同盟関係にあります。ポーランドにまがりなりにもそれなりの空軍が育った背景にはこの軍事同盟が存在しています。
 1918年の独立時のポーランド軍航空部隊は第一次世界大戦で他国空軍に加わって戦ったポーランド人パイロットに加えてフランス、イタリア、またはイギリスから送られたパイロットで構成されていますが、 このわずか総兵力60機程度のポーランド航空部隊がソ連との国境戦争で思いの外に奮闘したことから、ポーランド陸軍の中枢は航空戦力の重要さを明確に認識します。第一次世界大戦後の諸外国陸軍と同じように「航空優勢が無ければ陸戦の勝利は望めない」という認識がポーランドにも生まれ、小国でありながらもポーランド軍内部で航空部隊が成長できる余地を生み出します。一般にはあまり指摘されませんが、この時代ですらそうした認識を持たなければ地上軍の高級指揮官は務まりません。

 ポーランドの航空部隊の発達はかなり明確に段階を区切ることができます。最初は遺棄されたドイツ機と中古のフランス、イギリス機によって構成されていますが、ソ連との戦争が終結した1920年以降、外国人パイロットの帰国に伴って再編成を必要としたポーランド航空部隊ではフランス軍の指導下にまず地上軍直協を主任務とした航空兵力の育成が開始されます。

 1921年以降のポーランドとフランスの軍事同盟関係は空軍育成にも深く関わっていますが、当然、フランスのこうした政策はタダではありません。ドイツを東西から挟撃するための軍事同盟であると同時にフランス製兵器の輸出先としてポーランドの価値があったのです。ポーランドがフランスから買った「空軍」の値段は575機の中古フランス機で総額4億フランです。その予算はフランスからの「フランス機を買うため」の借款で成立しています。

 フランス軍主導の航空部隊養成時代を経て、ポーランドは自国空軍を独自に育成する時代を迎えます。独自の航空士官学校「鷲の巣」が設立され、独自のドクトリンも形づくられます。軍用機の機種分類は戦闘機、駆逐機、爆撃機、戦術機、陸軍直協機の5機種とされ、駆逐機と爆撃機は総司令部直属、他の機種は野戦軍指揮官の下に配備されます。独自路線とは言うものの、この新しい体制を構成したのは言うまでもなくフランス機で、約600機の購入計画が立てられ、スパッド51/61、ブレゲー19などが購入されますが、注目すべきなのは大型の夜間爆撃機ファルマン「ゴリアテ」が32機含まれていた点です。

 フランス軍の指導を離れて独自路線を歩むことがすなおに了承されたのはこうした新たな買い物が派手に行われたからで、フランスとしては手間も掛からずに飛行機も売れるのですから文句はありません。ファルマン「ゴリアテ」がベルリンを行動半径に収めても、それがフランスまで飛んで来るはずもありませんから脅威にもなりません。当然、代金は再び「フランスからの借款」によって賄われます。

 そんな関係でしたから、ポーランド航空部隊首脳にフランス航空機工業との癒着問題が取沙汰されるようになります。1926年にはそれが現実となり、航空部隊司令官の失脚と共にポーランドの政策は一転して自国内での航空機工業育成と国産機装備を目標とするようになりますが、そうした政策転換をフランス政府は許しません。何しろ金の出所はフランス政府なのですから有無を言わせぬものがあります。そのためにポーランド航空部隊は旧式で事故の多発するスパッドを使い続けることを迫られます。「スパッドのために戦闘機隊員は絶滅の危機にある」と言われた時期です。

 そんな不自由に耐えながらも、ポーランド航空部隊は数年を掛けて国産軍用機主体の空軍へとゆっくりと移行し始め、軍用機国産化計画はある程度の成果を生み出します。PZL7/11や、PZL23、LWS4などはこの時期に計画された国産軍用機です。そして航空戦ドクトリンの洗練も進み、1931年には新ドクトリンの下で戦闘機、爆撃機、戦術機、地上直協機が制定され、実体の伴わなかった駆逐機は機種分類から外されます。しかし国産機とはいえ、エンジンは現品か製造権をフランスから買う訳ですから、借金は相変わらず減りません。

 そんな台所事情ではあるものの、1930年代のポーランド航空戦ドクトリンの特徴は何といっても「ドーウェ主義」であることに尽きます。小国ながらポーランド航空部隊は戦略空軍志向なのです。ポーランド航空部隊は小兵力ゆえの兵力集中主義と万能機志向を特徴としますが、まさに飛行機ならば手の届く範囲に仮想敵国の首都があるポーランドとしては必然的な選択でもあります。その体制だけ見れば戦時のアメリカ戦略空軍と基本は一緒です。

 本音としてはもう大規模な陸戦はやりたくないフランスとの軍事同盟関係はこうしたポーランドの航空戦略と共に存在していたようなもので、最終的形態としてはフランス空軍の長距離爆撃機部隊とポーランドの長距離爆撃機部隊はドイツ中枢に対して互いの国内基地を利用する往復爆撃を視野に入れていましたから、ポーランドの「戦略爆撃志向」は単なる時代の流行ではなく自国が生き延びるための「本気」の軍備でした。

 爆撃機部隊はドイツ軍の侵攻をオーデル川東岸で抑えるための必要兵力として爆撃機63飛行隊(378機)、戦術機(急降下爆撃機を新規配備予定)360機が見積もられていましたが、1936年のポーランド航空部隊の第一線機は総兵力318機で、13個の戦闘飛行隊、17個の戦術(軽爆/偵察)飛行隊、3個の爆撃飛行隊と33個小隊の直協機に過ぎません。そこで1942年までに886機へ兵力を拡大するための要求が行われます。886機体制の内訳は総司令部直属の中央独立航空軍(戦略爆撃部隊)に30個爆撃飛行隊と32個戦術飛行隊、野戦軍司令官指揮下の戦術航空軍に8個戦闘飛行隊、8個偵察飛行隊、18個直協飛行隊となる計画でしたが、これを実現しようにも軍資金がありません。

 しかし1936年、ドイツのラインラント進駐に伴ってやや弛緩していたフランスとの軍事同盟関係が活性化したことで、新たに「フランスからの大規模借款」が決定しますが、それでもこの計画規模は大きすぎるので、総兵力を708機にまで減らした修正案が7月に提出されます。この時期のポーランド再軍備予算の20%以上はこの航空再軍備に投じられているのですが、その予算はそれなりに売上の好調な国債と馬鹿にならない額の寄付と大規模なフランスからの借款で構成されていたのです。国家存亡の危機を迎えた1939年夏、ポーランドが驚く程に素寒貧なのは借りに借りまくったこの借金のためでした。

10月 27, 2008 · BUN · 2 Comments
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2 Responses

  1. ペドロ - 10月 27, 2008

    ポーランド空軍の戦闘ドクトリンなどここが初見でしたが、フランス頼みの現場とは異なり、何とかポーランド流の戦略を編み出そうとしていたんですね。

    ところで
    >爆撃機部隊はドイツ軍の侵攻をオーデル川東岸で抑えるための

    これってヴィスワ川東岸の間違いじゃないですか?東プロイセンにシュレージエンまで獲っておいて侵攻を抑えるというのはおかしな気が。

  2. BUN - 10月 28, 2008

    さっそくありがとうございます。
    ポーランド軍の「現場」は単に勇敢だったという以上に勇ましいですよ。それはこれから。
    航空阻止攻撃を行う予定地域はオーデル東岸で間違いありません。

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