護衛戦闘機は役に立ったか?

 ドイツ本土爆撃と護衛戦闘機について、一般的な認識は「爆撃作戦開始時にドイツ本土へ侵攻する爆撃機を護衛できる行動半径の大きな戦闘機が無く、最初はイギリス空軍のスピットファイアがやっと大陸の入り口までを護衛できる状態だったが、その後、P-47やP-38といった行動半径の大きい戦闘機が投入されて段々と奥地まで護衛できるようになり、最終的にはP-51マスタングの投入によって爆撃の全行程を戦闘機が護衛できるようになった。」というものではないかと思います。時を追って事実を並べると確かにそんな印象を受けますが、実際に爆撃作戦を行っていた航空部隊が同じように考えていたかというと、実はそうでもありません。

 軍隊は原則的にそのドクトリンに従って行動します。アメリカの爆撃機部隊も例外ではありません。アメリカが参戦前に策定したAWPD-1に沿って軍備が進められ、参戦後ほぼ1年経過して承認されたAWPD-1942で方向づけられた航空戦略は「大陸反攻に先立つ航空優勢の確立」を目的としています。開戦前に策定され、ドーウェの理論そのままに空軍力だけで戦争の行方を決定できるかもしれないとの想定を含んだAWPD-1は電力施設などを第一とする戦略爆撃の本流に近い爆撃目標の優先順位を示していましたが、実際に戦争を始めてから地上軍の大陸反攻作戦を前提として立案されたAWPD-1942は大枠については同じでもより現実的にその目標をドイツ空軍の撃滅に置いています。

 こうしてヨーロッパ大陸に地上軍を侵攻させるために、ドイツ空軍機を空中で撃破し、その基地で撃破し、さらに部隊配備前に工場で破壊してしまうことが爆撃機部隊の第一の任務となります。そしてドイツ空軍の脅威とはその弱体な爆撃機兵力ではなく、優秀な戦闘機部隊を意味しますから何を置いても撃破すべき敵はドイツ戦闘機ということになります。そのために1943年度からの戦略爆撃作戦はドイツの国家全体の崩壊を導くような総合的なものではなく、ドイツ戦闘機の活動を無力化するために行われています。それはノルマンディ上陸作戦に先立つ大規模で長期にわたる航空撃滅戦的な色彩の濃い「戦略爆撃」だったと言えます。

 AWPD-1942がドイツ空軍の撃破を第一目標としていながらも、もし十分な数の爆撃機があればドイツを国家まるごと崩壊させる作戦が実施されたでしょう。けれども1943年1月にイギリス本土に展開した長距離爆撃機部隊はたったの12ループでしかありません。そのために目標は戦闘機部隊の撃破に絞られ、爆撃機部隊はドイツ戦闘機を空中で撃破することもその任務に含めて出撃しています。

 爆撃機が空中で戦闘機を撃破することを目標に投入されるとは奇妙な印象を受けますが、アメリカ陸軍航空軍は伝統的に爆撃機優位論ですから、重防御で火力に優れた爆撃機編隊は敵戦闘機に優ると考えていた上に、友軍戦闘機は敵戦闘機の防衛ラインを爆撃機が突破する際の道をひらくことが任務の一つとされていたことも思い出す必要があります。アメリカ陸軍航空軍のドクトリンにおいて戦闘機とはそのように使う兵器でした。

 そのため1943年前半の戦略爆撃作戦では爆撃目標として航空機工場が第一に選定され、その爆撃行程で必ず飛行するドーバー海峡に面した大陸沿岸地域で最も激しい邀撃を仕掛けてくると予想されたドイツ戦闘機を集中的に撃破するための補助戦力としてP-47とスピットファイアが随伴します。戦闘機の投入にはこうした目的があり、脚の短い戦闘機を応急的に護衛につけた訳ではないのです。長距離護衛戦闘機の研究は進められていましたが、その配備を期待する声はまだありません。

1943年5月にはドイツ昼間戦闘機の空中撃破という目的をより促進するためにもう一つの施策が実行に移されます。それが武装強化爆撃機です。B-17やB-24の防御火力を大幅に増強した巨大戦闘機の投入で爆撃機編隊の火力を強化してより大きな撃墜戦果を挙げることがその目的でしたが、試験投入されたYB-40とYB-41は重量増加のために通常の爆撃機と編隊行動ができず、失敗に終わります。けれどもその投入は防御目的ばかりではなく、積極的な攻撃が意図されていた点は見逃せません。

 このように爆撃の目的がドイツ戦闘機隊の撃滅にあったことは確かですが、実際の戦況はそれほど華々しいものではなく、爆撃機部隊は膨大な損害に苦しみます。ドイツ戦闘機の損害も大きなものでしたが、それでも当初の目的だった「戦闘機空中撃破」はとても達成できそうもないことがようやく認識され、1943年6月には遂に長距離護衛戦闘機随伴の準備が始まります。1943年夏のシュバインフルト、レーゲンスブルグへの爆撃作戦での大損害はそうした中で発生したものです。

 打ち続く大損害によって昼間精密爆撃を放棄して夜間地域爆撃(結果として無差別爆撃になる)に転換することさえ検討され始めます。アメリカもイギリスと同じように夜間爆撃を検討したことは注目に価します。このように戦略爆撃は兵力が巨大であれば都市壊滅(当然無差別爆撃になる)も含めた目標選定が行われ、劣勢であれば夜間地域爆撃(やっぱり無差別爆撃)に転換するものです。

 敵国家をまるごと崩壊させる爆撃作戦を一気に実施できるほどの兵力が無く、かといって夜間爆撃という効率の悪い作戦に後退しなくとも済む程度に爆撃兵力がある場合に、限られた兵力で特に重要な目標に限定して行われるのが昼間精密爆撃(それほど無差別爆撃にはならない)なのです。この点ではアメリカもイギリスも本質的な違いはありません。戦略爆撃はどちらに転んでも無差別爆撃に向かうもので、そもそも爆撃とは人の頭上に爆弾を落とす行為なのですからただ無差別爆撃であるかないかだけを問うことで当時の政治家や軍人を批判することは大きな間違いですね。

 けれどもヨーロッパ大陸への地上軍反攻は「ドイツ戦闘機隊の撃滅」が進捗しないことには実施できませんから、夜間爆撃ではなく爆撃効率の良い昼間精密爆撃を何が何でも継続しなければならず、1943年12月にはそれまでイギリス本土の航空基地を爆撃機に優先的に使用させるために制限されていた戦闘機部隊の投入が急遽促進されるようになります。

 この時期に投入されたのが落下タンクを装備して航続距離を延伸したP-38とP-51B/Cです。同時に爆撃機部隊の兵力も1943年10月の26グループから1944年2月には48グループに増強されます。この長距離護衛戦闘機の投入によってアーノルドの命じた「敵空軍を見つけ次第撃破せよ。空中でも、地上でも、そして工場でも。」がようやく現実となり、大陸反攻作戦の下地が完成します。

 機内燃料タンクを増設し大容量の落下タンクを装備したP-51マスタングの投入は目に見えて状況を改善します。爆撃機編隊の防御砲火をアウトレンジする重武装の双発戦闘機をほぼ排除できたほか、単発戦闘機にとっても大きな障壁となったからです。幸運にも大陸の入り口でP-51を戦闘に巻き込んで落下タンクを投棄させるような戦術は採用されず、爆撃機部隊は敵戦闘機の脅威からほぼ解放されます。

 けれども爆撃機部隊にとってドイツ戦闘機は「二番目の敵」で、最大の脅威である高射砲は依然として健在で強化される傾向にありました。しかもドイツの兵器生産は拡大し続け、電力関連施設も手つかずのままです。そして石油関連施設も健在でした。

 アメリカ国内で1960年代になって現れた対ドイツ戦略爆撃無効論はこうした状況を批判したものですが、我々にとっては戦略爆撃が有効であろうがなかろうが「何故こんなことになったのか」が一番面白いところではないかと思います。

9月 7, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

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