米英戦略爆撃に思想の差があるか?

 アメリカ参戦前後の時期に立てられた戦略爆撃計画が非常に大規模なものであったことは既に紹介しましたが、実際に行われた爆撃作戦は原計画をはるかに下回る規模で展開されています。アメリカの長距離爆撃機部隊がイギリス本土に展開し、大陸への昼間精密爆撃を開始したのは1942年8月17日のことです。けれどもこの爆撃作戦は開始間もなく北アフリカへの上陸作戦支援のために兵力を抽出され、目立った成果を挙げる間もなく弱体化してしまいます。

 そのために1943年1月に対ドイツ本土戦略爆撃作戦に投入されていた長距離爆撃機部隊は12グループでしかありません。アメリカの長距離爆撃機部隊が予定されていた62グループに達するのは1944年5月のことで、連合軍の勝利を決定的なものにしたノルマンディ上陸作戦のたった1ヵ月前です。しかもこの兵力はドイツ本土よりもノルマンディ上陸作戦支援のために投入されてしまい、戦略爆撃作戦はまたも徹底を欠いてしまいます。
 
 連合軍の戦略爆撃によってドイツ本土に投下された爆弾の量は戦争を通じて277万540トンと言われていますが、1944年1月1日までに投下されたのはそのうちの17%に過ぎず、ノルマンディ上陸作戦成功後の1944年7月1日まででさえ28%です。全爆弾の70%はノルマンディ上陸後から終戦までの間に投下されています。それもそのはずで、連合軍の爆撃機兵力はアメリカ空軍の場合、対ドイツ爆撃の第一線にあったB-17、B-24の総数は1943年1月にはたった413機でしかなく、爆撃機兵力がピークに達し5072機となるのは1945年3月です。「頭上の敵機」や「メンフィスベル」がスリルに満ちているのはこの兵力不足のためですが、終戦直前にドレスデンを壊滅させた頃の爆撃機兵力は戦略爆撃作戦初期の10倍以上に拡大していました。

 そしてイギリス空軍はもっと兵力が不足しています。1943年1月のイギリス空軍爆撃機コマンドはハリファックス195機でランカスター293機を持っていましたが、1945年4月になっても第一線の実動機は1069機でしかありません。損害の補充で増強が間に合わず、終戦まで十分な兵力を保持できていなかったのがイギリス空軍の苦しいところです。

 こうやってあらかじめ見積もられた必要兵力と実際に投入された兵力とを見比べると、なんとなく見えてくるものがあります。一般に言われるようにアメリカは昼間精密爆撃を重視し、イギリスは夜間無差別爆撃を主作戦としたことは事実ですが、その本質的な理由は両国空軍の戦術思想の違いでもなければ政治的配慮でもなく、ましてや国民性でもないということです。

 イギリス空軍は昼間精密爆撃をドクトリン通りに継続して実施するには爆撃機兵力が小規模に過ぎ、損害の大きい昼間精密爆撃をやりたくてもやれない、という事情があります。そのために損害の比較的小さい(と思われた)夜間無差別爆撃を採用することで爆撃作戦を続行できたのです。もしイギリス空軍爆撃機コマンドがもっと強大であれば、彼らが迷うことなく1920年代から育んだ爆撃ドクトリンに忠実に従い昼間精密爆撃を主体とし夜間爆撃をその補助とする作戦を実施したことは疑う余地もありません。

 そしてアメリカ戦略爆撃機部隊の場合は、イギリス空軍よりも規模が大きく、補充、増援も大規模ですから最も効果が大きい昼間精密爆撃によって戦略目標を潰すために作戦できたのですが、もし爆撃機兵力が小さければ、開戦前に研究されたようにイギリス空軍と同じような夜間無差別爆撃を主体としたでしょうし、仮に史実より遥かに大きな兵力を早期に整備できていたのであれば、ドイツの諸都市を全てドレスデンのように焼き尽くすことも可能だったでしょう。アメリカの戦略爆撃機部隊の規模はドイツ国内の諸都市を一度に壊滅させるほどには大きくなく、かといって夜間爆撃に切り換える程に弱体でもなかったので、爆撃効果が大きく効率が良いと考えられた目標に対する昼間精密爆撃に投入されたということです。

 また、ドイツ奥地への爆撃作戦全行程を護衛できるP-51マスタングの大量投入が勝利を決定づけたとの説明もあまり適当ではないことも見えてきたと思います。P-51マスタングが投入されてから何ヶ月も後になってようやく爆撃機兵力は名実ともに「戦略的」規模になったのです。P-51マスタングの投入は確実にドイツ戦闘機隊をより弱体化させましたが、それよりも何よりも爆撃機の数が増え、一度に投入できる機数が格段に増えたから損害が減ったのですし、P-51マスタングの作戦開始とほぼ重なる1944年1月にはドイツ空軍のパイロット補充システムが完全に破綻して、沖縄戦頃の日本海軍航空隊のような状態にあったことは以前に紹介した通りです。ドイツ空軍はマスタングが本土上空を飛び回る前に破綻していましたし、マスタングがドイツ上空へ飛んだからといって戦略爆撃がその場で大成功した訳でもありません。

 戦後、アメリカ戦略空軍は自らの実施した戦略爆撃作戦について、総合的に効果不十分と判断しています。ドーウェの戦略爆撃論は爆撃機部隊の装備の質と量が不足したために第二次世界大戦を通じてその正当性が実証されなかったというものですが、総合的に見ればドーウェの示した戦略爆撃の有効性は評価されドーウェ理論を否定する意見は現れません。あれほどの数の爆撃機を投入し気が遠くなるほどの爆弾を投下しても効果不足だったのに、それでも彼らがドーウェ理論の実践が可能と判断した理由はただ一つ、対独戦、対日戦に勝利した戦略爆撃機部隊はそのとき既に原子爆弾を手にしていたからです。

9月 6, 2008 · BUN · 4 Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

4 Responses

  1. Zafira - 9月 6, 2008

    いつも興味深く拝読させていただいております。
    さて,一つ質問させてください。

    1943年1月時点で
    米国:対独第一線B-17+B-24計413機
    英国:ランカスター+ハリファックス計488機
    と,両者には大きな兵力差がみられません。この時点では両者とも昼間精密爆撃,夜間無差別爆撃のいずれを主体とするかについてそれほど明確な棲み分けが為されていなかったということなのでしょうか。

  2. BUN - 9月 7, 2008

    確かにそうですね。
    ここは戦略爆撃を新たに実施するアメリカとそれまでに経験を積み、方針を決定していたイギリスとの違いが表れている部分だと思います。
    そして1942年秋からのアメリカ側の爆撃目標が主にフランス国内に置かれ、その結果から戦闘機の邀撃と高射砲に対してある程度の自信を持っていたことが大きな理由です。

  3. Zafira - 9月 7, 2008

    ご回答ありがとうございます。
    実際の四発爆撃機運用の流れの中で捉えなければならないということですね。
    ご教示ありがとうございました。
    今後のお話しの展開を楽しみにしております。

  4. アミバ - 4月 1, 2009

    興味深いお話をありがとうございました。
    1944年1月にすでにドイツ空軍のパイロット補充が破綻、という意見は
    勉強になりました。私は独軍のパイロットシステムの破綻は
    P51参戦後の空戦損失増大が原因だと思っていましたので。

    そこで僭越ながら質問させていただきたいのですが
    44年1月までに独軍のパイロットを消耗させ、補充不可能に
    追い込んだのはどのような損失だったのでしょうか?
    本土に護衛なしで来寇する爆撃機の防御砲火、イタリア戦線、東部戦線
    このあたりの複合要因でしょうか?

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