塹壕模様の存在理由

 
 これまで主に攻撃ドクトリンを中心に紹介してきましたが、こんどはちょっとだけ、防御ドクトリンの変遷を追っかけてみたいと思います。 華々しい攻撃ドクトリンでさえ大きく誤解される傾向にありますが、ことに防御ドクトリンとなると正確な紹介が行われることは極めて稀です。防御という地味な分野であることも確かですが、「わかりやすい歴史の流れ」から少しだけ離れたところで考えられ、実行されて来たものですから「戦車の登場」とか「新しい戦争のパラダイム」といった際立った話の輝きを割り引いてしまう趣きがあるからかもしれません。

 たとえば第一次世界大戦では因習的な塹壕戦のセオリーに支配されていたところに戦車という革命的な兵器が新しい戦術思想の萌芽とともに登場して旧い戦術思想を一蹴しつつあった・・といった認識の下では、当時の防御ドクトリンは語るに足らない平板で旧式な過去の遺物に見えてしまいます。

 けれども第二次世界大戦で電撃戦と呼ばれる機動突破作戦をいくつも成功させたドイツ陸軍が採用していた防御ドクトリンは第一次世界大戦の経験に根ざす昔ながらのセオリーに支えられたものでした。最先端を行く存在が防御面では第一次世界大戦のままだったのはなぜでしょうか。このあたりが防御ドクトリンの変遷を追いかける楽しみになります。
 では意外にも息の長かった第一次世界大戦の塹壕戦での防御ドクトリンにちょっとだけ触れて行きましょう。

 第一次世界大戦は凄惨で大規模な陸戦が特徴です。ドイツ軍と連合軍がほとんど戦線を移動しないまま何年も対峙し続け、ときたま大きな攻勢がどちらかから仕掛けられては両軍に信じられないような大損害をもたらして終わるという陰惨なイメージがあります。そんな戦争なので、その戦術的な単純さもあって第一次世界大戦の各会戦に関する論評はドクトリン上の問題よりも、重箱の隅をつつくような衒学的な戦術批評に傾きがちです。すなわち誰々将軍の何が良かった、悪かったという陸戦にありがちな語り口です。これは一度読む分には勉強になりますが、そればっかりだとどうにも飽きが来ます。将棋の駒のように兵士達を扱う視点はただでさえ反感を買いやすいものですが基本的に退屈な戦いなのでついつい戦術の巧拙ばかりを論ってしまいがちなのです。

 けれども第一次世界大戦の防御ドクトリンには一つの転換点があります。
それはドイツ軍が1916年末から採用し始めたもので、このような考え方を意識的かつ明確に実施したのはドイツ陸軍が初めてでした。その新しい防御ドクトリンは「弾性防御」です。

 第一次世界大戦の塹壕陣地を空から見た図というものを思い浮かべてみると、何となく幾重にも折れ曲がった塹壕が互いに連絡しあう複雑な模様が現れるのではないかと思います。そしてさらに何となく、その複雑な模様の前方には、敵にもっとも近い位置にある監視哨的な小拠点とそれを結ぶ細い塹壕線があるような気がしないでしょうか。そこから後方に少し距離を置いてから複雑に絡まった訳のわからない主陣地があり、さらにその後方には砲兵陣地があるという形が自然に印象づけられているような気もしますし、そうでなくても「そう言われればそうだなぁ」と納得できるのではないでしょうか。

 これが「弾性防御」のための防御陣地の姿で、実は戦争前半には無かったものです。
 第一次世界大戦でドイツ軍は東西の両戦線に兵力を振り分けて戦っていましたが、手早く片のつきそうな東部戦線を処理するために西部戦線の兵力を転用する必要に迫られます。そのためには戦線を整理して予備軍を作り出す戦略的な撤退も必要になりますし、何よりも戦闘で蒙る損害を最小限に留め、結果的に少数の兵力で戦線を支え切ることが重要になります。

 このために生み出されたのが「弾性防御」で、主陣地の前方に哨戒線が設けられていることと縦深のある複雑な塹壕線、そして砲兵を含む後方陣地が特徴です。複雑に折れ曲がり絡み合った二重、三重の塹壕線は第一次世界大戦の陸戦で経験的に自然発達したものではなく、東部戦線での攻勢を実現するために損害の減少、兵力の節約を目的として採用された意識的、計画的な施策のひとつだったということです。

 第一次世界大戦はかつてない大規模な砲兵火力が投入された戦争です。砲兵の集中射撃を受けると歩兵部隊はたとえ陣地にあったとしても大損害を受けてしまいます。しかし第一次世界大戦では砲兵の射撃は直接照準でなければ陸上の観測所を利用した間接射撃に限られています。すなわち「見えない所は狙えない」ということで、主陣地の前方に置かれた薄い防御線は主陣地を敵の砲兵観測から隠蔽することが第一の役割になります。

 こうした前方の哨戒陣地は敵の攻撃を受けた場合、あまり抵抗力がありません。「弾性防御」は前哨線が破られるのは覚悟の上なのです。けれども敵歩兵が突破して主陣地に達しても、当時の軍隊にはそこから砲兵観測を行えるような軽量小型の無線装備がありません。しかも主陣地は敵に対して逆向きの傾斜地を選んで設けられるのが原則でしたから、なおさらに観測しづらくなっています。

 そして主陣地は幾重にも重なり合った塹壕線で構成され、敵部隊が侵入した場合、陣地内で自由に戦うことを許された友軍の戦闘グループが塹壕線を利用してそこへ集中して敵部隊を押し留め、もし、敵部隊を追い出せなかったら後方陣地から増援部隊が駆けつけて本格的な反撃に移行します。しかも敵からは見えず、友軍の後方陣地に向けて傾斜した主陣地へは後方陣地の砲兵が一方的に射撃することになります。

 こうして主陣地をバトルゾーンとして敵の攻撃を粉砕するのが「弾性防御」の基本的な考え方です。何だかたよりない前哨線があるのはバトルゾーンへの敵の砲兵支援を妨げるためで、後方陣地には友軍の砲兵と反撃部隊が置かれます。このように「弾性防御」とはそれまでの単純な塹壕線とは異なる三段階に明確に役割分担された防衛線が縦深をもって設けられるという特徴を備えています。

 そしてこの防御ドクトリンは成功したかといえば、当初の計画通りドイツ軍の損害軽減には非常に役立ち、破滅の時を遅らせたことは確実で、たとえば1918年春、いくら消耗したとはいえ前線にあったドイツ軍の約半数が古参兵で占められていたことも「弾性防御」による損害の低減、兵力節約の結果です。

 しかし第一次世界大戦といえば連合軍は幾度かの戦車による突破作戦を実施していますし、戦争末期には連合軍戦車の姿はもう珍しいものではなくなります。こうした新兵器の登場は「弾性防御」にも影響を与えています。

 まず戦車と戦うためにバトルゾーンの縦深をより大きくとるようになり、バトルゾーンの内部を自由に動き回る戦闘グループにも対戦車用の兵器が配備されて、敵戦車に対して恐慌を起こさないような教育も徹底されます。そして後方陣地の砲兵も敵の対砲兵射撃対策として迅速な陣地変換に対応するようになっていますが、「弾性防御」の基本的な形は変わりません。

 この防御ドクトリンは戦車攻撃に対しても有効であると、実際に戦車と戦ったドイツ軍は判断していますし、その戦車を送り込んだイギリス軍もまた同じように認識したことはイギリス軍が大戦後にこの「弾性防御」を教範に採り入れていることからもわかります。

 こうして眺めると、第一次世界大戦で当たり前のように思われた物の存在理由がはっきりしてきます。かぼそい前哨線がどうして置かれたのかと言えば、それには砲兵観測を困難にするという大きな役割があり、この戦争で連合軍が大量の弾薬を浪費しなければならなかった理由の一つはこうした陣地構造の変化だったことがわかります。また幾重にも折り重なった網の目のような塹壕線は単純な防御線ではなく、侵入する敵部隊に対して陣地内で移動の自由を与えられた友軍の反撃部隊が移動防御を行うためのもので、その網の目こそが友軍に有利に戦闘を進め、敵の攻撃部隊を殲滅するバトルゾーンだったことも明確になります。

 さらに推し進めて考えると、このような陸戦の枠組みの中で、飛行機というものがどれだけ画期的な存在だったかもなんとなく呑み込めてきます。砲兵の目を前哨線を越えて後方まで延長できるなら、集中しようとする反撃部隊を直接妨害できたなら、と考えて行くと「弾性防御」用陣地が衰退した理由も見えてくると思います。

 と、まあ、こんなことがわかるとスカッとします。このスカッとする気持ちがないと戦史の世界はひたすら重苦しく、息が詰まってしまいますね。

7月 20, 2008 · BUN · 2 Comments
Posted in: ドイツ軍の防御戦ドクトリン, 陸戦

2 Responses

  1. ヤマザクラ - 7月 20, 2008

    WWIIでは塹壕「線」が廃れてゆき、島嶼状陣地帯に拠るキル・ゾーン戦術へ移行した、
    という「歴史群像」の記事を思い出しつつ、読ませていただきました。
    自分は戦史の知識に乏しい素人ですが、
    いくつかの情報が有機的に結びついたときの「スカッとする」気持ち、分かる気がしました。

  2. BUN - 7月 21, 2008

     塹壕は一度自分で掘ってみるとわかるんですけれど、えらい仕事ですね。タコツボを掘るだけでもアゴが出ます。
     皆さんもぜひ自分で・・・とお奨めしたいところですが、通常、塹壕はおろかタコツボを掘っても世間が狭くなりますから御注意くださいませ。

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