アメリカの機動戦理論
アメリカ陸軍は世界大戦中にフランス戦線で学んだフランス流の機械化部隊運用理論がそのまま1930年代まで受け継がれています。歩兵には重装備の突破戦車を配備し、騎兵には軽快な小型戦車(騎兵では戦車の用語を用いず「コンバットカー」を使用)を採用するという方向です。
その後、フランスが戦車運用方針を一転させた後もアメリカでは旧フランス理論が生き残っており、歩兵と騎兵に分断されつつアメリカ戦車は発達して行きます。M4シャーマンへ発達するM2中戦車とM3、M5を経てM24に向けて進化するM2軽戦車の二系統が生まれるのは戦間期のアメリカ陸軍機械化部隊が二つの兵科によってそれぞれ異なった視点で捉えられていたことの名残りです。
日本は同じ装軌車両でも歩兵科の「戦車」と騎兵科の「装甲車」がありやがて合同して機甲科の下で「戦車」に統一されましたが、、アメリカも同じような状況にあった訳です。
それではアメリカ陸軍が日本の中戦車より強力な「コンバットカー」やM4中戦車を生み出しながら、ドイツに対して理論面で大きく遅れた最大の理由は何だったかと言えば、それは騎兵理論の退潮とそもそもの未発達によるもののようです。騎兵部隊が真面目に偵察捜索を第一の任務と捉えてしまったことと、欧州諸国の伝統ある騎兵科にはまだ存在した重騎兵的発想の残渣が綺麗さっぱり無かったことがチャーフィーなどのパイオニアの存在がありながら、機動戦理論の停滞を見た大きな理由のひとつと解釈すべきもののように思います。アメリカ陸軍の機動戦理論の発達過程にはアメリカ陸軍における「騎兵論」の性格が大きく関与しているのです。
4月 30, 2008
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Posted in: 機動突破作戦の変遷, 陸戦
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