マーリンとアリソン

1940年春にイギリスからマーリンの米国内生産が持ちかけられます。けれどもフォードとの交渉は頓挫してしまい、紆余曲折を経てパッカードでの生産が決まります。

 これはロールスロイスが考えたことではなく、もともとイギリスの航空エンジン行政がそうした転換生産を考えていたからで、戦時にエンジンを増産するための体制をあらかじめ計画していたからです。

 パッカードとの契約もイギリスに対してその生産能力を100%与えてしまうことは問題視され、発注数の50%は米国向けとする方針が採られます。

 さらにアリソンのみに頼っていた液冷航空エンジン生産体制が米国内で問題視されたことも手伝って、3000基の発注が行われることになります。この頃はマーリンの評判は良好で、ロッキードもカーチスもP-38、P-40へのマーリン搭載研究を行い性能推算を提出しています。

 けれども、1942年初頭にV-1650としてマーリンが量産に移行する頃、アリソンは新鋭の高性能戦闘機P-38と試作中の高性能邀撃機P-63に対して最優先の供給を行うことになり、P-40へのV-1710供給が危なくなります。P-40だってアリソン装備のP-40Nの量産を早く開始したいのですが、同時にパッカードのマーリン生産をマーリン61相当の性能向上型へ切り替えることが決定され、米空軍としてはこのエンジンは「欲しい」ものだった訳です。

 マーリン60シリーズの量産準備が整うまではパッカードを遊ばせて置く訳にも行かず、かといって使い道の無い一段過給器のマーリンは積みたくない。そんな中でマーリンを消化するために造られたのがマーリン装備のP-40という訳です。

「P-40にマーリンはもったいない」
「アリソン保護の目的ですぐアリソンに戻された」

 確かにそう思うのも無理はないけれど、受ける印象と事実とはこのようにほぼ180度違う場合が多いんですねぇ。

4月 9, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: 発動機

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