クルスクでの失敗

 クルスクの航空戦は両軍とも長い準備期間を経て戦い始めた割には出来の悪い戦いでした。

 たとえばドイツ空軍は攻勢に先立ち、ソ連航空基地への航空撃滅戦を仕掛けますが、先に取り上げた擬装基地に引き寄せられてしまい、6月中に実施されたソ連側が記録する35回(かなり少ない回数ですが)の基地空襲のうち29回は擬装基地を攻撃してしまい殆ど戦果を挙げていません。
 そしてソ連軍の基地空襲もドイツ空軍の組織的邀撃に阻まれて成功していません。太平洋戦争の常識からみれば隣の庭を襲撃するような戦いなのですが、それが両軍とも上手く行かないのです。

 なにしろ準備に時間がありましたからソ連空軍はクルスクの航空戦を3つのステージに分けてじっくりと計画しています。その第1ステージはドイツ軍の攻勢開始日の2日または3日前から攻勢拠点に対して連続空襲を実施するというもので、これにより攻勢の出鼻を挫く予定でした。

 ところがソ連軍はドイツ軍の攻勢開始日を7月4日の晩になるまで確定できません。「ソ連軍はあらかじめドイツ側の計画を詳細に察知していた」訳ではないのです。いつ攻勢が開始されるのかさっぱり確定できないので先制空襲が計画できません。

 このために航空戦の第1ステージは実施されないままウヤムヤになります。続く第2ステージはソ連軍の前方防御線上空のエアカバーです。この戦闘は1日で終わる予定でした。最初の防衛線はその程度しかもたないと判断されていたからです。

 第3ステージは主防御線をドイツ軍が突破しようとした際の地上戦支援と阻止攻撃です。これが最も激しい戦闘となる予定で、おそらく主防御線もいずれ突破される覚悟で、そこから敵が機動戦に移行するのを妨害することがテーマだったと思われます。

 こうした一連の戦闘を空陸一体の連携を保ちながら進められるよう、航空軍の連絡将校が前線司令部に配置され、地上戦の状況を観察しつつ航空部隊を無線で直接指揮できる前線指揮所も設置されて、地上軍の必要に応じて即時支援できるシステムが準備されていたのです。

 けれども実際に戦闘が始まってみると、北方地区を担当していた第2航空軍は地上軍司令部に連絡将校をまだ送っておらず、南方を担当した第16航空軍の連絡将校と前線の航空戦指揮所に配置された空軍将校には「そもそも航空戦を指揮する能力がない」という頭の痛い問題を抱えていました。まったく我が事のように身に染みる話です。

 しかも第16航空軍の前線指揮所はその配置が前線から遠く離れ過ぎて使い物にならず、第2航空軍の前線指揮所は無線がしばしば不調で機能しません。

 この無線通信の不備はどうも事前に無線通信網のテストが行われなかったために発生したようです。時間だけは十分にあったのに事前のテストが省略されてしまったのは、暗号がドイツ軍に解読されるのを警戒して航空軍指揮用無線の使用が制限されたから、との説もあります。

 そんな混乱のためにソ連空軍はクルスクの戦いで地上軍の要求する地点に飛行機を送りこめない事態が頻発し、飛行機が飛んで来ても既にその地点での戦闘が決着していたり、戦場が別の場所に移動していたりする例が多く、クルスク戦時点での航空戦指揮システムはドイツ空軍に比べると約一年、発達が遅れている状態です。

 こうしたクルスクでの失態はソ連軍にとって貴重な教訓となってその後の空地一体の機動突破作戦実現に向けて役立てられます。凡庸で頑固なイメージのあるソ連軍という組織には意外にも柔軟で研究熱心な気風があります。
 大戦争を戦いながら自らの組織を変え、ドクトリンを洗練し続けるために各戦闘に関する分析と評価が必ず行われるごく当たり前の組織であり、分析と評価を行う専門官が配置されていたのです。

3月 7, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ソ連空軍

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