ソ連空軍は何を変えたか?

 1941年10月、モスクワ攻略を目指したタイフーン作戦が開始されます。
 ソ連空軍はそれまでの大出血に加えてさらに激しい戦闘を受けて立たねばならず、相変わらずの損害を出し続けますが、ドイツ空軍にしてもこの攻勢は容易ではなく、作戦開始時の可動機比率は戦闘機58%、爆撃機40%という状況です。そんな中でも空襲は続けられ、地上攻撃も続行されます。出撃回数も段々と減り、地上部隊の進撃が停止する原因となっています。

 けれどもそんな中で航空兵力の引き上げと転用が行われ、東部戦線から一個航空軍が姿を消します。先行きの暗い攻勢の真っ最中になぜ頼みの綱である航空兵力を引き上げたことは後から見れば大いに疑問ではありますが、この時点でドイツ空軍がソ連空軍に与えた累積損害からソ連空軍の活動はまもなく停止するだろうとの見通しがあり、航空兵力の地中海方面転用はその見通しに基づいて決定されています。

 ドイツ空軍の航空支援が下火になると共に地上軍も消耗し、モスクワ前面での挫折に繋がる訳ですが、このあたりはそのへんの本にも書いてありますから、わざわざ触れることではありません。

 モスクワ攻防戦が一段落した後、ソ連空軍は何をやったかといえば、兵力の再建もさることながら、それ以上の意味を持つ大規模な組織改変をやったのです。組織の改変ですからトップが変わります。

 レニングラード戦線で独創的な戦術を駆使して航空戦を戦ったノビコフが中央に呼び戻されて1942年4月に空軍司令官となります。ノビコフは極めて重要な人物で、ソ連での航空戦理論をよく理解してしかもそれを精力的に実施できる貴重な人材でしたが、彼の就任以前からソ連空軍内には一つの大きな動きが現れます。それは1930年代に発達したソ連流機動戦理論に連動した航空兵力の大規模集中投入を目指すようになったことです。

 今まで前線の野戦軍の指揮下にあった航空兵力を連絡機、観測機などを除いて取り上げて方面軍単位にまとめあげて、臨機に重点地区へ集中投入できるような体勢としただけでなく、それとは別に最高司令部直轄の膨大な戦略予備を作り上げ、それを重点地区に集中投入することを目的に空軍の組織を変え始めます。準備中の大攻勢に用いるための戦略予備は全空軍兵力の40%に達します。

 1942年後半以降のソ連空軍の戦闘は1930年代に提唱された大規模集中を体現したもの、または体現しようと頑張ったもの、に変わるのです。
ドイツ空軍はこの時期以降の航空戦ではその活動はかなり限定されたものになります。それでもドイツ軍礼賛戦史の世界では「ルフトバッフェは最後まで手強い敵で、しばしばソ連軍に大打撃を与えたのだ」と言われ続けています。それは本当のことです。ソ連空軍は高い損害率に最後まで悩み続けていますし、地上軍もドイツ空軍によって大きな損害を出しています。
 けれども既に先行きが暗いドイツ空軍がなぜそんなに活躍できたかといえば、その答は比較的簡単です。

「ソ連空軍は大規模重点投入ドクトリンを実施していたので、ドイツ空軍が小さく活躍したその場所、その時にソ連空軍がいなかった」

 だからこそルーデルはシュツーカで飛び続けていられたのです。

3月 7, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ソ連空軍, ソ連空軍復活の背景

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