メッサー3万機、フォッケ2万機の舞台裏

 開戦時のドイツ単発戦闘機はご存知の通り100%、Bf109で占められていますが、当然、後継機の開発は進められており、これがFw190です。
より強力な発動機を搭載した戦闘機で、スピットファイアに対抗できる性能を持ち、なおかつBf109よりも離着陸の容易な機体で更新するというプログラムは当初から存在していましたが、実際に残されている生産記録だけを読むと、戦時の量産によってその基本方針が覆い隠されて見えてきません。

 では、いつBf109からFw190への生産転換が決意されたかといえば、それは1941年8月です。この時点で、多くのBf109関連工場がFw190生産にシフトすると決められています。この直前にミルヒとメッサーシュミットとの会談があり、どうもその内容がミルヒにBf109の早期生産終了を決意させたようなのです。ミルヒとメッサーシュミットの仲の悪さは相当なものだったようですが、戦闘機量産に対するメッサーシュミットの消極的姿勢に対して絶望した結果、この決断に至った形跡があります。

 この時期はドイツの軍用機生産計画が非常に極端な傾向を確定した時期でもあります。プラン15と呼ばれる開戦前の計画では月産170機だった戦闘機生産目標が、プラン16を経て1940年のプラン18、そして1941年7月のプラン19-2でほぼ倍増するのですが、この戦闘機増産は生産設備の拡充よりも生産機種の転換によって計画されているのです。
すなわち、輸送機、練習機の大幅減産です。

 プラン15では全生産機数の22%を練習機が占めていますが、それが段階的に減少し、ついに1941年6月のプラン19ではたった9%に落ち込んでしまいます。これがどれほど異常なことかといえば、日本陸軍が当時の環境では無謀とも言われる3万1000機の生産計画を立てた昭和19年度計画でもその20%は練習機です。正気の沙汰ではないとされる日本の決戦計画でさえ20%の練習機を含んで立案されているのです。

 正気がどちらにより多く残っていたかは一目瞭然ですが、この政策が何を生んだかは言葉に出すまでもありません。ミルヒは優秀な人材だったのでしょうけれど、その「遣り繰り」で首が絞まったのも事実なんだな、ということでしょうか。

3月 7, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ソ連空軍, ソ連空軍復活の背景, ドイツ空軍

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