6月22日の舞台裏

 1941年6月22日、ドイツ空軍は事前の航空偵察によって選定されたソ連国境地域の航空基地66ヶ所に対して空襲を実施します。これらの基地にはソ連にとっての西部戦線にある第一線軍用機の約70%が配備されていましたから昭和19年のトラック島やホーランジアのような有り様が戦線全域で発生しています。

 しかしソ連軍もまったくの馬鹿ではありませんから警報は前日の21日23:00には発せられ、この警報で飛行機の分散と擬装を開始できたオデッサ軍管区の基地群は損害を最小限に留めることができましたが、ドイツ空軍が最優先で実施した有線電話網の破壊作戦のために多くの航空基地は警報を受信できず、かろうじて警報を受信できた基地群にしても当時のソ連空軍には夜間の基地移動能力が殆どありませんから、夜明けを待つ以外に道は残されていません。なにより警報を受信した基地の多くがそれまでドイツへの挑発を厳しく禁じられ、ドイツ偵察機の邀撃さえ禁止されていたこともあって、いざ警報が発せられてもそれにどう対応してよいかわからず、空襲を受けるまで何もしなかったのです。

 ドイツ空軍の手際よさとソ連軍の情けない事情によって絵に描いたような航空撃滅戦が開始され、6月22日の一日だけで1339機が失われ、そのうち800機以上は地上で撃破されています。残りの500機以上はドイツ戦闘機との空中戦とその他の要因による損失で、ドイツ戦闘機は少なくとも200機以上、最大で400機程度のソ連軍機を撃墜したと考えられています。

 空中戦で圧倒的に敗北した原因としては、ソ連戦闘機が旧式なI-16中心だった(それでもハリケーンより強力だったと言われています。)のもさることながら、何よりも基地と通信網の大損害によってソ連軍は全てが後手にまわり組織的邀撃戦を戦えず、少数機ずつが次々に掃討されてしまった点を見逃せません。

 敵機を地上で破壊するという航空撃滅戦の真髄ともいえる戦いがあまりにも見事に成功した理由についてドイツ側はソ連軍機が愚かにも分散、擬装を一切実施せず、翼を接して飛行場に整列していたことを指摘しています。これはソ連軍も認めていますので両軍ともに認めるまったくの事実なのですが、ソ連軍機がそのような致命的な状態で配置されていたのはロシア人が愚かだから、航空戦に無知だったから、といった説明で十分なのでしょうか。

 6月22日当時、ソ連軍は少なくとも西部戦線に614の飛行場を持っており、さらに400箇所以上の飛行場が建設中でした。各基地は30機程度の運用能力があり、日本軍の前進飛行場程度の規模があります。運用能力があるということは掩体などに分散して飛行機を保護できるということです。ソ連空軍の各航空隊は建前として3ヶ所以上の基地にまたがって展開することになっており、63個展開していた航空隊はこれらの飛行場に余裕をもって配置される予定でした。

 けれども、600ヶ所以上の飛行場に飛行機を分散できなかった理由があります。それは通信設備の不足です。各飛行場に分散した航空隊を一斉に出撃させるには充実した通信網が必須でしたが、資源不足から無線、有線問わず、民間電話網も含めて西部戦線全域の基地に対する通信設備の充足率は20%に過ぎません。しかもポーランド分割後に前進した国境の直後にある地域は民間電話網さえもが不自由な状態でしたから、飛行場は単なる不時着場として機能するだけで、作戦に利用できる航空基地として数えられるものは100ヶ所程度でしかありません。

 そんな飛行場不足の中で各軍管区に向けて毎月150機以上の飛行機が送られていましたから、飛行場が満杯になる訳です。さらにソ連航空部隊は基本的に野戦軍単位に分割されていますから、軍をまたいで基地を融通することができないというドクトリン上の問題も飛行場問題を深刻化させています。

 30機定数の飛行場に場所によっては150機もの配置が行われていた事情はこうしたものです。航空撃滅戦の教科書のような大戦果はソ連軍の航空基地建設ラッシュによる大混乱を見事に衝いて成立したということです。

 こうしてバルバロッサ第一日目で1339機もの損害を蒙ったソ連空軍ですが、ソ連にとっての西部戦線には合計7133機の第一線機が配置されていましたから、史上最大の損害といえどもその20%弱を撃破したに過ぎません。20%以下でも大損害は大損害で、第一線の槍の穂先を折られてしまったことは大きな痛手ですが、残り80%の航空部隊はどうなったのでしょう。と、気を引きつつ・・・。

3月 7, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ソ連空軍, ソ連空軍復活の背景

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