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歩兵第一連隊、後備歩兵第一連隊

 今日は、妻が外出し、旦那を昼中野放しにするというミスをおかす。

「明治卅七八年日露戰史 第五巻 第六巻」参謀本部編纂
  大正二年七月二十日発行

より旅順攻囲戦の第一師団歩兵第一連隊と後備歩兵第一旅団後備歩兵第一連隊の損害を書き写す

●(明治37年6月6日~30日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    3

歩兵第一連隊第三大隊
 戦傷    下士卒    1

歩兵第一連隊
 戦傷合計  下士卒    4

●(明治37年7月1日~30日)

歩兵第一連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    1

●(明治37年7月26日~28日)
歩兵第一連隊第三大隊
 戦傷    下士卒    3

後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒   31        
 総合計         32

後備歩兵第一連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    3       

後備歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒    1
 戦傷合計  下士卒   34
 総合計         35

●(明治37年7月30日)

歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     1 
        下士卒    8
 戦傷合計         9
 総合計         10

歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    将校     1 
        下士卒   34
 戦傷合計        35
 総合計         38

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    将校     4
        下士卒   10
 戦傷合計        14
 総合計         16

歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒    6
 戦傷合計  将校     6 
         下士卒   52
 戦傷総合計       58
 総合計         64

●(明治37年8月13日~15日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒   18
 戦傷    将校     6 
        下士卒   33
 戦傷合計        39
 総合計         57

歩兵第一連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    6

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    将校     1
        下士卒    1
 戦傷    下士卒    6
 戦死合計         2
 総合計          8

歩兵第一連隊
 戦死合計  将校     1
         下士卒   19
 戦傷合計  将校     6 
         下士卒   45
 戦死総合計       20
 戦傷総合計       51
 総合計         71

後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒   21
 総合計         23

後備歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    将校     4
        下士卒   11
 戦傷    将校     2 
        下士卒   55
 戦死合計        15
 戦傷合計        57
 総合計         72

後備歩兵第一連隊
 戦死合計  将校     4
         下士卒   13
 戦傷合計  将校     2 
        下士卒   76
 戦死総合計       17
 戦傷総合計        78
 総合計         95

●(明治37年7月31日~8月17日)
後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    3

●(明治37年8月18日~24日)
連隊司令部
 戦傷    将校     1

歩兵第一連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    5

歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒  107
 戦傷    将校    10
        下士卒  244
 戦傷合計       255
 総合計        361

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    将校     2
        下士卒  111
 戦傷    将校    19
        下士卒  340
 戦死合計       113
 戦傷合計       359
 総合計        472

歩兵第一連隊
 戦死合計  将校     2
         下士卒  218
 戦傷合計  将校    30 
         下士卒  589
 戦死総合計      220
 戦傷総合計      619
 総合計        839

●(明治37年8月19日~24日)
後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    将校     4
        下士卒   88
 戦傷    将校     9 
        下士卒  331
 戦死合計        92
 戦傷合計       340
 総合計        432

後備歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   85
 戦傷    将校    13 
        下士卒  283
 戦死合計        87
 戦傷合計       296
 総合計        383

後備歩兵第一連隊
 戦死合計  将校     6
         下士卒  173
 戦傷合計  将校    22 
        下士卒  614
 戦死総合計      179
 戦傷総合計      636
 総合計        815

●(明治37年8月25日~9月18日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    4
 戦傷    将校     1
        下士卒   23
 戦傷合計        24
 総合計         28

歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    将校     2
        下士卒   30
 戦傷合計        32
 総合計         35

歩兵第一連隊第三大隊
 戦傷    下士卒    7

歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒    7
 戦傷合計  将校     3 
         下士卒   60
 戦傷総合計       63
 総合計         70

●(明治37年9月19日~22日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    将校     2
        下士卒   25
 戦傷    将校     5 
        下士卒  123
 戦死合計        27
 戦傷合計       128
 総合計        155

歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   18
 戦傷    将校     5
        下士卒    6
 戦死合計        19
 戦傷合計       101
 総合計        120

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   21
 戦傷    将校     4
        下士卒   84
 戦死合計        22
 戦傷合計        88
 総合計        110

歩兵第一連隊
 戦死合計  将校     4
         下士卒   64
 戦傷合計  将校    14 
         下士卒  303
 戦死総合計       68
 戦傷総合計      317
 総合計        385

後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦傷    将校     1 
        下士卒    5
 戦傷合計         6

後備歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒   42
 戦傷    将校     6 
        下士卒  140
 戦傷合計       146
 総合計        188

後備歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒   42
 戦傷合計  将校     7 
         下士卒  145
 戦傷総合計       152
 総合計        194

●(明治37年9月23日~10月15日)
歩兵第一連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    3

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    将校     1
        下士卒   20
 戦傷合計        21
 総合計         23

歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒    2
 戦傷合計  将校     1 
         下士卒   23
 戦死総合計        2
 戦傷総合計       24
 総合計         26

後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    4
 戦傷    下士卒    5
 総合計          9

後備歩兵第一連隊第二大隊
 戦傷    下士卒    6

後備歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒    4
 戦傷合計  下士卒   11
 総合計         15

●(明治37年10月17日~25日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    3

歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒    1

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     1
        下士卒    5
 戦傷合計         6
 総合計          7

歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒    2
 戦傷合計  将校     1 
         下士卒    8
 戦傷総合計        9
 総合計         11

●(明治37年10月26日~31日)
歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒    1

後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒   12
 戦傷    将校     2
        下士卒   39
 戦傷合計        41
 総合計         53

後備歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    6
 総合計          5

後備歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒   13
 戦傷合計  将校     2
         下士卒   43
 戦傷総合計       45
 総合計         58

●(明治37年11月1日~25日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒   12
 総合計         13

歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    下士卒    4
 戦傷    将校     1
        下士卒    6
 戦傷合計         7
 総合計         11

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    4
 総合計          5

歩兵第一連隊
 戦死合計  下士卒    6
 戦傷合計  将校     1 
         下士卒   22
 戦傷総合計       23
 総合計         29

●(明治37年11月26日~12月6日)
連隊本部
 戦死    将校     1
 戦傷    将校     1
 総合計          2

歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    将校     8
        下士卒   76
 戦傷    将校     9 
        下士卒  157
 戦死合計        84
 戦傷合計       166
 総合計        250

歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    将校     6
        下士卒  150
 戦傷    将校    10
        下士卒  210
 戦死合計       156
 戦傷合計       220
 総合計        376

歩兵第一連隊第三大隊
 戦死    将校     7
        下士卒  106
 戦傷    将校     7
        下士卒  229
 戦死合計       113
 戦傷合計       236
 総合計        349

歩兵第一連隊
 戦死合計  将校    22
         下士卒  332
 戦傷合計  将校    27 
         下士卒  596
 戦死総合計      354
 戦傷総合計      623
 総合計        997

後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    将校     3
        下士卒   41
 戦傷    将校     3 
        下士卒  196
 戦死合計        44
 戦傷合計       199
 総合計        243

後備歩兵第一連隊第二大隊
 戦死    将校     1
        下士卒   43
 戦傷    将校     4 
        下士卒  148
 戦死合計        44
 戦傷合計       152
 総合計        196

後備歩兵第一連隊
 戦死合計  将校     4  
         下士卒   84
 戦傷合計  将校     7 
         下士卒  344
 戦死総合計       88
 戦傷総合計      351
 総合計        439

●(明治37年12月7日~17日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1

後備歩兵第一連隊第一大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒     1
 総合計           3

●(明治37年12月28日~1月2日)
歩兵第一連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    1

「軍談 秋山真之の日露戦争回顧碌」新人物文庫
  2007年2月7日 新人物往来社
 本の解説とは面白い物で、当然解説者は、その道に詳しいというか、研究者だと誰しも思うだろう。次の文を書き写す。

 旧参謀本部による「日露戦史」は明治四十一、四十二年に刊行されています。司馬遼太郎は「坂の上の雲」を執筆するために神田古書街の日露戦争関係の資料をごっそり買い占めたといわれますが、この膨大な分量の参謀部本については「重いばかりで全く三文の価値もないくず本」と断定しています。
 なぜかというと、公式の日露戦史記録でありながら、参謀本部にとって都合の悪い事実、失敗はすべて隠され、真実が書かれていないためです。特に、最大の激戦地となり、最大の激戦地となり、多数の犠牲者を出した旅順攻撃については「記述すべからず」と厳禁にされています。
 日露戦争の真実は秘匿され、国民に知らされなかったのです。
           (P266より)

 ボロクソに言われる「日露戦史」、生憎、作家でも名誉教授でもない地方のミリタリーマニア(最近ではそれすらも怪しい)なので充分参考になり、実際のところ、当時これだけのことをよく書き、一般に市販されたなと驚嘆している。それにしても思うのは、この解説者は「日露戦史」に目を通していないか、日露戦争の知識が無いよな。

旅順攻囲戦工兵部隊別戦死傷者数

 アジア歴史資料センターで見られる、海軍が作った

 「極秘明治37.8年海戦史」

 の中から旅順攻囲戦の数字を引っ張り出してくる。

    旅順攻城戦間第三軍兵科別死傷表より

工兵科 
 戦死       准士官以上    20
          下士卒      567
 戦傷       准士官以上    66
         下士卒    2333
 生死不明   下士卒       7
 計       准士官以上    86
          下士卒    2918

    旅順攻城戦間第三軍死傷隊別一覧表より

第一師団工兵第一大隊 
 戦死     将校        8
        下士卒      76
 戦傷     将校       10
        下士卒     307
 計        将校       18
         下士卒     390

第九師団工兵第九大隊 
 戦死      将校        5
         下士卒     209
 戦傷      将校       21
         下士卒     621
 生死不明 下士卒       7
 計        将校       26
           下士卒     830

第十一師団工兵第十一大隊 
 戦死         将校        3
              下士卒      87
 戦傷          将校       10
             下士卒     551
 生死不明  下士卒      55
 計       将校       13
         下士卒     693

第七師団工兵第七大隊 
 戦死   将校        1
       下士卒      60
 戦傷   将校        4
       下士卒     181
 計     将校        5
       下士卒     241

第一師団後備工兵第一中隊 
 戦死      将校        1
         下士卒      12
 戦傷      将校        3
           下士卒     117
 生死不明 下士卒       1
 計      将校        4
        下士卒     130

第三師団後備工兵第一中隊 
 戦死        将校        2
           下士卒      36
 戦傷        下士卒     149
 生死不明    下士卒       1
 計           将校        2
            下士卒     186

第十二師団後備工兵第一中隊
 戦死        将校        2
             下士卒      46
 戦傷       将校        2
            下士卒      95
 計         将校        4
            下士卒     141

近衛工兵大隊第一中隊
 戦死     下士卒      20
 戦傷     下士卒      45
 計        下士卒      65

工兵第六大隊第二中隊
 戦死   下士卒      21
 戦傷    将校        1
       下士卒      68
 計      将校        1
       下士卒      89

工兵第八大隊第一中隊
 戦死      将校        1    
         下士卒      42
 戦傷      将校        2
         下士卒      96
 計        将校        3
           下士卒     138

工兵第一大隊、工兵第九大隊、工兵第十一大隊、工兵第七大隊

  旅順攻囲戦における歩兵の苦しさは誰でも語るのだが、ひょっとしたら工兵はもっと悲惨だったのではと思われる数字を書き写す。旅順攻囲戦で戦った第一師団工兵第一大隊、第九師団工兵第九大隊、第十一師団工兵第十一大隊の戦死傷者数である。(第一師団後備工兵第一中隊、第三師団後備工兵第一中隊、第十二師団後備工兵第一中隊、近衛工兵大隊第一中隊、工兵第六大隊第二中隊、工兵第八大隊第一中隊の数字もあるが、実態がよく分からないので除く。)

明治37年6月6日~30日

工兵第十一大隊
  戦傷   下士卒  1

明治37年7月26日~28日

工兵第一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  4

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第一大隊
  戦傷合計 下士卒  5

工兵第九大隊第二中隊 
   戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒  4
 
工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊
  戦傷合計 下士卒  6

明治37年7月30日

工兵第一大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  1
  戦傷   将校  13
       下士卒  1
  戦傷合計     14
  戦死傷合計   15

明治37年7月31日~8月17日

工兵第九大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  3
  
工兵第十一大隊第一中隊
  戦傷 下士卒    1 
 

明治37年8月7日~9日

工兵第十一大隊本部
  戦死   将校   1
  戦傷   下士卒  1
  戦死傷合計     2

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  1
   戦傷   下士卒 27
  戦死傷合計    28

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊
  戦死合計 将校   1
          下士卒  1
  戦死総合計     2      
  戦傷合計 下士卒 29
  戦死傷総合計   31

明治37年8月13日~15日


工兵第一大隊第一中隊
  戦傷   将校   1 
       下士卒  9
  戦傷合計     10

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒  5

工兵第一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  2

工兵第一大隊
  戦傷合計  将校  1
           下士卒16
  戦傷総合計    17

明治37年8月18日~24日

工兵第一大隊第一中隊
  戦傷   将校   1 
       下士卒 15
  戦傷合計     16

工兵第一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  1 
  戦傷   将校   1 
       下士卒 18
  戦傷合計     19
  戦死傷合計    20

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   将校   1
  戦傷   将校   2
       下士卒 12
  戦傷合計     14
  戦死傷合計    15

工兵第一大隊
  戦死合計 将校   1
        下士卒  1
  戦死総合計     2
  戦傷合計 将校   4
        下士卒 45
  戦傷総合計    49
  戦死傷総合計   51

工兵第九大隊本部
  戦死   将校   2

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   将校   1  
       下士卒  9
  戦死合計     10
  戦傷   将校   1
       下士卒 51
  戦傷合計     52
  戦死傷合計    62

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒 16
  戦傷   将校   3

        下士卒 76
  戦傷合計     79
  戦死傷合計    95

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   将校   1  
       下士卒 31
  戦死合計     32
  戦傷   将校   3
       下士卒 88
  戦傷合計     91
  戦死傷合計   123

工兵第九大隊
  戦死合計 将校   4
        下士卒 56 
  戦死総合計    60     
  戦傷合計 将校   7
        下士卒215
  戦傷総合計   222
  戦死傷総合計  282

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  8
  戦傷   将校   1
       下士卒 21
  戦傷合計     22
  戦死傷合計    30

工兵第十一大隊第二中隊
  戦死   将校   1
       下士卒 35
  戦死合計     36
  戦傷   将校   1
       下士卒 53
  戦傷合計     54
  戦死傷合計    90

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒 24
  戦傷   将校   3
       下士卒 63
  戦傷合計     66
  戦死傷合計    90

工兵第十一大隊
  戦死合計 将校   1
        下士卒 67 
  戦死総合計    68     
  戦傷合計 将校   5
        下士卒137
  戦傷総合計   142
  戦死傷総合計  210

明治37年8月25日~9月18日(対壕作業)

工兵第一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  3

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   将校   2
  戦傷   下士卒  7
  戦死傷合計     9

工兵第一大隊
  戦死合計 将校   2
  戦傷合計 下士卒 11
  戦死傷総合計   13

工兵第九大隊第一中隊
  戦傷   下士卒 13

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   将校   5
  戦傷   将校   1
       下士卒 12
  戦傷合計     13
  戦死傷合計    18

工兵第九大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒 15

工兵第九大隊
  戦死合計 将校   5      
  戦傷合計 将校   1
        下士卒 40
  戦傷総合計    41
  戦死傷総合計   46

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒  2
  戦死傷合計     4

工兵第十一大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  4

工兵第十一大隊
  戦死合計 下士卒  2      
  戦傷合計 下士卒  7
  戦死傷総合計    9

明治37年9月19日~22日

工兵第一大隊第一中隊
  戦死   下士卒 11
  戦傷   下士卒 51
  戦死傷合計    62

工兵第一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  2 
  戦傷   下士卒 10
  戦死傷合計    12

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒 14
  戦傷   下士卒 45
  戦死傷合計    59

工兵第一大隊
  戦死合計 下士卒 27
  戦傷合計 下士卒106
  戦死傷総合計  133

 工兵第九大隊第二中隊
   戦死   下士卒  1
   戦傷   下士卒  3
  戦死傷合計     4

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   将校   1  
       下士卒 16
  戦死合計     17
  戦傷   下士卒 31
  戦死傷合計    48

工兵第九大隊
  戦死合計 将校   1
        下士卒 17 
  戦死総合計    18     
  戦傷合計 下士卒 34
  戦死傷総合計   52

工兵第十一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  2

工兵第十一大隊
  戦傷合計 下士卒  3

明治37年9月23日~10月15日

工兵第一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  2
  戦傷   将校   2 
       下士卒  9
  戦傷合計     11
  戦死傷合計    13

工兵第一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  1 
  戦傷   下士卒 14
  戦死傷合計    15

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   将校   1
  戦傷   下士卒  7
  戦死傷合計     8

工兵第一大隊
  戦死合計 将校   1
        下士卒  3
  戦死総合計     4
  戦傷合計 将校   2
        下士卒 30
  戦傷総合計    32
  戦死傷総合計   36

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  7
  戦傷   下士卒 20
  戦死傷合計   27

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  9
  戦傷   下士卒 25
  戦死傷合計    34

工兵第九大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  2

工兵第九大隊
  戦死合計 下士卒 16      
  戦傷合計 下士卒 47
  戦死傷総合計   63

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  3
  戦傷   将校   1
       下士卒 23
  戦傷合計     24
  戦死傷合計    27

工兵第十一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  3
  戦傷   下士卒  6
  戦死傷合計     9

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒  4
  戦死傷合計     6

工兵第十一大隊
  戦死合計 下士卒  8     
  戦傷合計 将校   1
        下士卒 33
  戦傷総合計    34
  戦死傷総合計   42

明治37年10月16日

工兵第一大隊
  戦傷合計 下士卒  2

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  3
  戦傷   将校   1
       下士卒  7
  戦傷合計      8
  戦死傷総合計   11

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  1
  戦傷   下士卒  5
  戦死傷合計     6

工兵第九大隊
  戦死合計 下士卒  4     
  戦傷合計 将校   1
                       下士卒 12
  戦傷総合計    13
  戦死傷総合計   17

工兵第十一大隊第三中隊     
  戦傷合計 下士卒  2

明治37年10月17日~25日

工兵第一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  2

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   将校   1
       下士卒  5
  戦傷合計      6

工兵第一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  4

工兵第一大隊
   戦傷合計 将校   1
        下士卒 11
   戦傷総合計    12

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  1
  戦傷   下士卒 11
  戦死傷合計   12

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  8
  戦傷   下士卒 23
  戦死傷合計    31

工兵第九大隊第三中隊
  戦死   下士卒  1
  戦傷   下士卒  9
  戦死傷合計    10

工兵第九大隊
  戦死合計 下士卒 10      
  戦傷合計 下士卒 43
  戦死傷総合計   53

工兵第十一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊第二中隊
  戦傷   下士卒 13

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  3

工兵第十一大隊    
  戦傷合計 下士卒 17

明治37年10月26日~31日

工兵第一大隊本部
  戦傷   将校   1

工兵第一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒 16

工兵第一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  2 
  戦傷   将校   2
       下士卒 21
  戦傷合計     23
  戦死傷合計    25

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   将校   1
       下士卒  6
  戦死合計      7
  戦傷   将校   2
                    下士卒 21
  戦傷合計     23
  戦死傷合計    30

工兵第一大隊
  戦死合計 将校   1
          下士卒  8
  戦死総合計     9
  戦傷合計 将校   5
        下士卒 58
  戦傷総合計    63
  戦死傷総合計   72

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  4
  戦傷   将校   1
       下士卒 13
  戦傷合計     14
  戦死傷合計    18

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  9
  戦傷   将校   2
        下士卒 31
  戦傷合計     33
  戦死傷合計    42

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒 29
  戦死傷合計    31

工兵第九大隊
  戦死合計 下士卒 15      
  戦傷合計 将校   3
        下士卒 73
 戦傷総合計    76
 戦死傷総合計   91

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   将校   2 
        下士卒  8
  戦死合計     10
  戦傷   下士卒 44
  戦死傷合計    54

工兵第十一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  4
  戦傷   将校   1
        下士卒 30
  戦傷合計     31
  戦死傷合計    35

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦死   将校   1
        下士卒 14
  戦死合計     15
  戦傷   将校   1
        下士卒 17
  戦傷合計     18
  戦死傷合計    33

工兵第十一大隊
  戦死合計 将校   3
         下士卒 26 
  戦死総合計    29     
  戦傷合計 将校   2
        下士卒 91
  戦傷総合計    93
  戦死傷総合計  122

明治37年11月1日~25日

工兵第一大隊本部
  戦傷   将校   1

工兵第一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  1
  戦傷   下士卒  3
  戦死傷合計     4

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒  2

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  3
  戦傷   下士卒  7
  戦死傷合計    10

工兵第一大隊
  戦死合計 将校   1
         下士卒  4
  戦死総合計     5
  戦傷合計 下士卒 12
     戦死傷総合計   17

工兵第九大隊第一中隊
   戦死   将校   1
                 下士卒  1
     戦死合計      2
   戦傷   下士卒 15
     戦死傷合計    17

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  3
  戦傷   将校   3
       下士卒 35
  戦傷合計     38
    戦死傷合計    41

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒 17
    戦死傷合計    19

工兵第九大隊
  戦死合計 将校   1
                         下士卒  6
  戦死総合計     7     
   戦傷合計 将校   3
                         下士卒 67
   戦傷総合計    70
     戦死傷総合計   77

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  3
  戦傷   下士卒 23
    戦死傷合計    26

工兵第十一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  3
  戦傷   将校   1
       下士卒 17
  戦傷合計     18
    戦死傷合計    21

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒  7
    戦死傷合計     9

工兵第十一大隊
  戦死合計 下士卒  8     
  戦傷合計 将校   1
                        下士卒 47
  戦傷総合計    48
     戦死傷総合計   56

明治37年11月26日~12月6日

工兵第一大隊本部
     戦傷   将校   1

工兵第一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  9

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒 17

工兵第一大隊第三中隊 
    戦傷   下士卒  3

工兵第一大隊
  戦傷合計 将校   1
                        下士卒 29
  戦傷総合計    30

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  5
  戦傷   将校   1 
                 下士卒 22
    戦傷合計     23
    戦死傷合計    28

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  2
  戦傷   将校   3
       下士卒 15
  戦傷合計     18
    戦死傷合計    20

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  4
  戦傷   将校   2
                下士卒 18
  戦傷合計     20
    戦死傷合計    24

工兵第九大隊
  戦死合計 下士卒 11     
  戦傷合計 将校   6
                        下士卒 55
  戦傷総合計    61
    戦死傷総合計   72

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  4
  戦傷   将校   1
                下士卒 30
  戦傷合計     31
    戦死傷合計    35

工兵第十一大隊第二中隊
  戦死   下士卒 13
  戦傷   将校   1
       下士卒 47
  戦傷合計     48
    戦死傷合計    61

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  2
  戦傷   将校   2
                 下士卒 12
  戦傷合計     14
     戦死傷合計    16

工兵第十一大隊
  戦死合計 下士卒 19     
  戦傷合計 将校   4
                       下士卒 89
  戦傷総合計    93
    戦死傷総合計  112

工兵第七大隊第一中隊
  戦死   下士卒 31
  戦傷   将校   4 
                下士卒 83
  戦傷合計     87
    戦死傷合計   118

工兵第七大隊第二中隊
  戦死   将校   1 
                下士卒 22
  戦死合計     23
  戦傷   将校   1
       下士卒 70
  戦傷合計     71
    戦死傷合計    94

工兵第七大隊
  戦死合計 将校   1 
         下士卒 53
  戦死総合計    54     
  戦傷合計  将校   5
         下士卒153
  戦傷総合計   158
  戦死傷総合計  212

明治37年12月7日~17日

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒  3

工兵第一大隊第三中隊 
    戦傷   下士卒  1

工兵第一大隊
  戦傷合計 下士卒  4
 

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒  4
  戦死傷合計     6

工兵第九大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  2

工兵第九大隊
  戦死合計 下士卒  4     
  戦傷合計 下士卒  7
  戦死傷総合計   11

工兵第十一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  3

工兵第十一大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  4

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒 10

工兵第十一大隊     
  戦傷合計 下士卒 17

明治37年12月17日

工兵第七大隊第一中隊
  戦死   下士卒  6
  戦傷   下士卒  9
  戦死傷合計    15

工兵第七大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第七大隊
  戦死合計 下士卒  6     
  戦傷合計 下士卒 10
  戦死傷総合計   16

明治37年12月18日

工兵第九大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  3

工兵第七大隊第二中隊

     戦傷   下士卒  3

明治37年12月19日~27日

工兵第一大隊本部 
  戦傷   将校   1

工兵第一大隊第二中隊 
  戦傷   下士卒  3

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  3
  戦傷   将校   1
       下士卒  5
  戦傷合計      6
  戦死傷合計     9

工兵第一大隊
  戦死合計 下士卒  3
   戦傷合計 将校   2
        下士卒  8 
  戦傷総合計    10
  戦死傷総合計   13

工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  1
  戦傷   下士卒  1
  戦死傷合計     2

工兵第九大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  3

工兵第九大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第九大隊
  戦死合計 下士卒  1     
  戦傷合計 下士卒  5
  戦死傷総合計    6

工兵第十一大隊第一中隊
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒  5
  戦死傷合計     7

工兵第十一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  6
  戦傷   下士卒 25
  戦死傷合計    31

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊 
  戦死合計 下士卒  8    
  戦傷合計 下士卒 31
  戦死傷総合計   39

工兵第七大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第七大隊第二中隊
  戦死   下士卒  2
  戦傷   下士卒  7

工兵第七大隊
  戦死合計 下士卒  2     
  戦傷合計 下士卒  8
  戦死傷総合計   10

明治37年12月28日

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  6
  戦傷   将校   1
       下士卒 28
  戦傷合計     29
  戦死傷合計    35

工兵第九大隊第三中隊
  戦死   将校   1
       下士卒  7
  戦死合計      8
  戦傷   将校   2
       下士卒 20
  戦傷合計     22
  戦死傷合計    30

工兵第九大隊
  戦死   将校   1
       下士卒 13
  戦死合計     14
  戦傷合計 将校   3
         下士卒 48     
  戦傷総合計 下士卒 51
  戦死傷総合計   65

明治37年12月31日

工兵第一大隊第二中隊 
  戦死   下士卒  5
  戦傷   下士卒 18
  戦死傷合計    23

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  1
  戦傷   将校   1
       下士卒  6
  戦傷合計      7
  戦死傷合計     8

工兵第一大隊
  戦死合計 下士卒  6
  戦傷合計 将校   1
        下士卒 24 
  戦傷総合計    25
  戦死傷総合計   31

明治37年12月28日~1月2日

工兵第一大隊第一中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第一大隊第二中隊
  戦死   下士卒  5
  戦傷   下士卒 19
  戦死傷合計    24

工兵第一大隊第三中隊 
  戦死   下士卒  1
  戦傷   将校   1
       下士卒  5
  戦傷合計      6
  戦死傷合計     7

工兵第一大隊
  戦死合計 下士卒  6
  戦傷合計 将校   1
        下士卒 25
  戦傷総合計    26
  戦死傷総合計   32
 
工兵第九大隊第一中隊
  戦死   下士卒  3
  戦傷   下士卒  8
  戦死傷合計    11

工兵第九大隊第二中隊
  戦死   下士卒  7
  戦傷   将校   1
       下士卒 28
  戦傷合計     29
    戦死傷合計    36

工兵第九大隊第三中隊 
  戦死   将校   1 
       下士卒  7
  戦死合計      8
  戦傷   将校   2
       下士卒 27
  戦傷合計     29
  戦死傷合計    37

工兵第九大隊
  戦死合計 将校   1 
        下士卒 17
  戦死総合計    18     
  戦傷合計 将校   3
        下士卒 63
  戦傷総合計    66
  戦死傷総合計   84

工兵第十一大隊第一中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  2

工兵第十一大隊第三中隊 
  戦傷   下士卒  1

工兵第十一大隊    
  戦傷合計 下士卒  4

工兵第七大隊第一中隊
  戦死   下士卒  1
  戦傷   下士卒  3
  戦死傷合計     4

工兵第七大隊第二中隊
  戦傷   下士卒  1

工兵第七大隊
  戦死合計 下士卒  1     
  戦傷合計 下士卒  4
  戦死傷総合計    5

後備歩兵第四旅団

 あると分かっていてもなかなか手が出せない物がある。今週には妻が帰ってくるので思い出作りに行った。

「明治卅七八年日露戰史 第五巻 第六巻」参謀本部編纂
  大正二年七月二十日発行

を眺め、半ば溜息をつく。な~んだ附録に連隊どころか大隊までの戦死傷者数が書かれてあるんだ。さて、黄金の日々も終わるので、旅順攻囲戦の後備歩兵第四旅団の損害を書き写す。なお、後備第八連隊は大阪、後備第九連隊は京都、後備第三十八連隊は大津を衛戍地とした。

●(明治37年7月31日~8月17日)
後備歩兵第八連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    将校     1 
       下士卒    3
 戦死傷合計 将校     1
       下士卒    4
 総合計          5

●(明治37年8月19日~8月24日)
旅団司令部
 戦死    将校     1
 戦傷    将校     1 
       下士卒    1
 戦傷合計         2
 総合計          3

後備歩兵第八連隊連隊本部
 戦傷    将校     1

後備歩兵第八連隊第一大隊
 戦死    将校     6
       下士卒   86
 戦傷    将校    14 
       下士卒  348
 戦死合計        92
 戦傷合計       362
 総合計        454

後備歩兵第八連隊第二大隊
 戦死    将校     7
       下士卒   75
 戦傷    将校     9 
       下士卒  398
 戦死合計        82
 戦傷合計       403
 総合計        485

後備歩兵第八連隊
 戦死合計  将校    13
       下士卒  161
 戦傷合計  将校    25 
       下士卒  742
 戦死合計       174
 戦傷合計       769
 総合計        941

後備歩兵第九連隊連隊本部
 戦死    将校     1
 戦傷    将校     1

後備歩兵第九連隊第一大隊
 戦死    将校    10
       下士卒   56
 戦傷    将校    10 
       下士卒  379
 戦死合計        66
 戦傷合計       389
 総合計        455

後備歩兵第九連隊第二大隊
 戦死    将校    10
       下士卒  406
 戦傷    将校    12 
       下士卒  355
 戦死合計       416
 戦傷合計       367
 総合計        783

後備歩兵第九連隊
 戦死合計  将校    21
       下士卒  462
 戦傷合計  将校    23 
       下士卒  734
 戦死合計       483
 戦傷合計       757
 総合計       1240

後備歩兵第三十八連隊第二大隊
 戦死    下士卒   41
 戦傷    将校     5 
       下士卒   84
 戦死合計        41
 戦傷合計        89
 総合計        130

後備歩兵第四旅団
 戦死合計  将校    35
       下士卒  664
 戦傷合計  将校    54 
       下士卒 1561
 戦死合計       699
 戦傷合計      1615
 総合計       2314

●(明治37年10月26日~31日)
後備歩兵第八連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    2

後備歩兵第八連隊第二大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒   24
 戦死合計         2
 戦傷合計        24
 総合計         26

後備歩兵第八連隊
 戦死合計  下士卒    2
 戦傷合計  下士卒   26
 戦死合計         2
 戦傷合計        26
 総合計         28

後備歩兵第三十八連隊第一大隊
 戦傷    下士卒    1
 
第二機関砲第五小隊
 戦死    下士卒    4

後備歩兵第四旅団
 戦死合計  下士卒    6
 戦傷合計  下士卒   27
 戦死合計         6
 戦傷合計        27
 総合計         33

●(明治37年11月1日~25日)
後備歩兵第八連隊第二大隊
 戦傷    将校     1
       下士卒    3
 戦傷合計         4
 総合計          4

後備歩兵第三十八連隊第一大隊
 戦死    下士卒    3
 戦傷    下士卒    4
 戦死合計         3
 戦傷合計         4
 総合計          7

後備歩兵第四旅団
 戦死合計  下士卒    3
 戦傷合計  将校     1
       下士卒    7
 戦死合計         3
 戦傷合計         8
 総合計         11

●(明治37年11月26日~12月6日)
後備歩兵第八連隊第二大隊
 戦死    下士卒    2
 戦傷    下士卒    4
 総合計          6

後備歩兵第三十八連隊第一大隊
 戦死    下士卒    1
 戦傷    下士卒    4
 総合計          5

後備歩兵第三十八連隊第二大隊
 戦死    将校     2
       下士卒   83
 戦傷    将校    10 
       下士卒  194
 戦死合計        85
 戦傷合計       204
 総合計        289

後備歩兵第三十八連隊
 戦死    将校     2
       下士卒   84
 戦傷    将校    10 
       下士卒  198
 戦死合計        86
 戦傷合計       208
 総合計        294

後備歩兵第四旅団
 戦死合計  将校     2
       下士卒   86
 戦傷合計  将校    10
       下士卒  202
 戦死合計        88
 戦傷合計       212
 総合計        300

●(明治37年12月18日)
後備歩兵第三十八連隊第二大隊
 戦死    将校     2
       下士卒   56
 戦傷    将校     3 
       下士卒  168
 戦死合計        68
 戦傷合計       171
 総合計        229

●(明治37年12月28日~明治38年1月2日)
後備歩兵第八連隊第一大隊
 戦死    下士卒    5
 戦傷    下士卒   11
 総合計         16

後備歩兵第九連隊第一大隊
 戦死    下士卒    5
 戦傷    将校     1 
       下士卒   17
 戦傷合計        18
 総合計         23

後備歩兵第四旅団
 戦死合計  下士卒   10
 戦傷合計  将校     1 
       下士卒   28
 戦傷合計        29
 総合計         39

●(明治37年6月6日~明治38年1月2日
後備歩兵第四旅団
 戦死合計  将校    38
       下士卒  822
 戦傷合計  将校    71 
       下士卒 1996
 戦死合計       860
 戦傷合計      2067
 総合計       2927

「三十七年日露戦役ノ起ルヤ充員召集ニ応ジ、後備歩兵第八連隊ニ入隊シ、出征シテ清国遼東半島ニ上陸シ、旅順攻囲軍ニ属セシガ、八月二十二日盤龍山攻撃ノ際、望代方面ノ敵ニ対し勇敢ニ闘ヒ、遂ニ其ノ陣地ニ突入シ、生死不明トナリシガ、其ノ後戦死ト認定セラレタリ」
弱兵と言われた関西人もまた日露戦争では十分以上に働いているのである。
(なお、後備歩兵第三十八連隊の日露戦役での戦病死者数は全部で575名との記録がある。)
引用・参考文献
「滋賀県史(第四巻)」 滋賀県
  昭和四十六年十二月二十四日発行

「京都府誌 下巻」 京都府
  大正四年十月二十二日発行

「日露戦役 忠勇列伝 大阪府第三号」忠勇顯彰会
  大正三年九月二十八日発行

水銀

 「地質調査所報告第154號 本邦の水銀鑛床」
  昭和28年3月15日発行 工業技術院地質調査所

 昔々大昔、「水銀とイトムカ鉱山」という小話を書いたことがある。何ヶ月かぶりに古本屋を訪ねたところ(ブックオフは会社の前に在るので2日に1度は迷いこんでいる)買おうかなと思っていた石炭の本の隣に埋もれていた冊子があった。ページ数にして130あまりの薄い本であり、カドも破れていたので姫以外に興味をもった人間もいなかったのであろう。さて内容なのだが、戦時中の国内水銀生産の要点をつかんだそれはそれはすごいもので、すぐにネタになるのである。

 世界水銀鉱産額を見れば、1942年、
イタリア(世界第2のIdoria鉱山を有する) 2,200トン
スペイン(世界最大のAlmaden鉱山を有する)2,097トン
米国                    1,474トン
メキシコ                    941トン 
カナダ                     395トン
日本                      187トン、
中国                      137トン
チリ                       65トン
南アフリカ                    17トン
アルジェリア                    6トン
トルコ                       5トン
世界合計                  7,500トン
であった。
ところが、昭和19年にはイタリア、スペイン、米国、メキシコ、ロシア、カナダに次いで、世界総産額の4.5%を占めるにいたった。

 日本の輸入先国輸入量を見れば

昭和15年
 イタリア 379トン
 スペイン 111トン
 メキシコ  88トン
 米国    74トン
 合計   656トン

昭和16年
 メキシコ 608トン
 イタリア 698トン
 ドイツ   85トン
 合計  1315トン

昭和18年
 イタリア 166トン
 ドイツ  105トン
 合計   270トン

となる。昭和18年の輸入は柳船、仮装巡洋艦、Uボートによるものであろう。

 日本の生産高は
昭和12年    12.520トン
昭和13年    25.166トン
昭和14年    39.950トン
昭和15年   113.200トン
昭和16年   142.910トン
昭和17年   187.357トン
昭和18年   227.380トン
昭和19年   246.999トン
昭和20年   104.500トン

 国内地方別の生産高を最大の生産量をあげた昭和19年で見れば
北海道     233.436トン
近畿       18.300トン
四国        0.316トン
九州        3.066トン

 さらに国内鉱山を産出量順に並べれば
イトムカ鉱山  195.784トン
(北海道北見国常呂郡留辺蘂町)
天塩鉱山     11.388トン
(北海道天塩国中川郡美深町)
置戸鉱山      9.931トン
(北海道北見国常呂郡置戸村)
十勝鉱山      9.280トン
(北海道十勝国河東郡上士幌村)
大和鉱山      5.227トン
(奈良県宇陀郡宇太町)
神生鉱山      4.890トン
(奈良県宇陀郡宇賀志村)
佐伯鉱山      3.065トン
(大分県南海郡上野村、切畑村、佐伯市)
瓜幕鉱山      2.941トン
(北海道十勝国河東郡鹿追村)
八十士鉱山     2.377トン
(北海道北見国紋別郡遠軽町)
西舎鉱山      0.697トン
(北海道日高国浦河郡浦河町)
千早鉱山          ?トン
(大阪府南河内郡千早村)
大神鉱山      0.445トン
 (北海道?)
北鎭鉱山      0.339トン
(北海道北見国紋別郡渚滑村)
由岐鉱山      0.316トン
(徳島県那賀郡加茂谷村)
愛山渓鉱山     0.174トン
(北海道石狩郡上川郡愛別村)
幌加内鉱山     0.080トン
(北海道石狩国雨竜郡幌加内村)
多武峯鉱山     0.064トン
(奈良県磯城郡多武峯村)
 他にも統計に載らないような小鉱山があったのだが、戦後、イトムカ鉱山以外はすべて商業ベースのらないので消えていった。(町村名は当時のものである。)
 なお、当然この他にも鉱床の分布、形態、成因、鉱山別の状況なども書かれているが、ミリタリー趣味には外れるので触れない。(興味ある方は・・・・・)
 さて、この本には思いもよらないオマケが栞がわりに挟まれていた。どこか分からない小鉱山(おそらく北海道内の水銀鉱山)の生写真が1枚である。     

野戦砲兵第十八聯隊

 「日露戦役 御旗之光 第一師団管健兒部隊實戰記」
  明治40年9月2日発行 大日本奉公會編輯部

 日露戦争時、旅順攻囲戦での主な戦闘と損害を書き写しているのだが、資料も思うように集まらず(特に後備歩兵第一、第四旅団傘下の連隊の状況に関してはスターリングラードでは捜せない)、時間も無いので当分お休みになりそうです。上記の本より野戦砲兵第十八聯隊について書き写す

旅順要塞前進陣地の戦闘(明治37年7月27日)
戦死者数 下士       1名
     兵卒       4名
戦傷者数 将校       1名
     下士兵卒    13名

旅順本防御線攻囲の準備戦(明治37年8月15日)
戦死者数 兵卒       1名
戦傷者数 兵卒       3名

旅順要塞第一回総攻撃(明治37年8月)
戦死者数 将校       1名
     下士兵卒     3名
戦傷者数 将校       1名
     下士兵卒     5名

部分攻撃(明治37年9月19~21日)
戦死者数 下士       1名
     兵卒       1名
戦傷者数 下士兵卒     9名

部分攻撃(明治37年9月22~10月29日)
戦傷者数 兵卒       3名

旅順要塞第二回総攻撃(明治37年10月30日)
戦死者数 兵卒       1名
戦傷者数 兵卒       1名
 
旅順要塞第二回総攻撃(明治37年10月30日)
戦死者数 下士       1名
戦傷者数 将校       2名
     下士兵卒     8名

二〇三高地攻略支援砲撃(明治37年11月30~12月5日)
戦死者数 兵卒       1名

交通路妨害、市街(威嚇射撃)、東鶏冠山、二龍山(明治37年12月6日~12月28日)
戦死者数 下士       1名
戦傷者数 兵卒       3名

小麦粉

 一応仕事が軌道に乗るまではミリタリーの本は買わないと決めているのだが、去年の暮れに何処かで聞いた話が載っているので

 「日本の兵食史」鈴木 紀之
  2009年12月1日発行 株式会社カマド

を、無理を言って買っていただいた。その中に乾パンの材料の小麦粉について触れているが、考えてみれば、日清日露戦争頃の小麦粉の製造や品質など何も知らない事に気づき、今日、妻が同窓会で大阪に行っている事をいいことに図書館に調べに行ってみた。
 明治の初め、小麦粉の製造は石臼を人力や水車で動かす日本在来のものだった。明治維新後、まず石臼を蒸気機関で動かすことから始まり、ロールミル(ロールの間に小麦を通し押し潰す)等の導入により、欧米並みの品質の小麦粉が生産されるようになっていった。初めてロールミルが導入されたのは明治18年、農商務省が札幌に作った新工場であった。明治29年には日本全体でロールミルを使った機械製粉は日量320バーレルの製粉能力しかなかったが明治38年には10社強日量1500バーレルになった。明治38年内地小麦粉総供給高は内地生産高473万袋、輸入497万袋、合計970万袋であった。水車粉、輸入粉、機械粉の供給割合を見れば、明治17年それぞれ、97%、1%、2%なのに対し明治37年には57%、33%、10%となる。水車粉供給高を見れば明治17年6,861袋、明治35年9,321袋となる。
 日本製粉は明治30年ロールミル設備を備えた新工場(日量200バーレル処理)を稼働させた。在来の国産小麦粉に比べれば高品質であったが、原料は国産小麦であったから、パンや洋菓子には向かず、麺用の上質小麦として販売された。明治36年には第2工場(日量250バーレル処理)が生産を始めた。明治32年に初めて米国産小麦950石弱を輸入し、翌年にはオーストラリア産も挽いているが、日露戦争前後の3年を除くと国内産小麦の購入高が60~90%を占めていた。
 館林製粉(後の日清製粉)は明治34年にロールミル設備を備えた工場(日量50バーレル処理)の操業を始めた。明治36年には機械を増設、日量100バーレルになった。当時の製品はほとんど全部が製麺用で、現在でも名を残し(当時と同じ品質なのかは知らない)製菓用の薄力粉バイオレットは明治42年に発売されたものである。(スーパーの小麦粉売り場に行けば現在でも販売されています)
 さて、開発当時の重焼麺麭は国産の石臼引きのふすまが多く、精白度が低い粒子の粗い中力粉が使われたと推定されますが、日露戦争時にはおそらく米国かオーストラリアの輸入小麦粉が使われたのでしょう。しかしそれが、強力粉だったのか中力粉だったのか薄力粉だったのかは分かりません。

 引用・参考文献

「九十年史」日本製粉株式会社
  昭和六十二年二月二八日発行

「日清製粉株式会社七十年史」日清製粉株式会社
  昭和四十五年八月二十五日発行

鯨 NO.4

 ナチスドイツと鯨油の関係について前々から関心を持っていたのだが、去年の秋に古本屋で1冊の本を見つけ大よその事が分かった。

「ものと人間の文化史120-Ⅱ・捕鯨(ほげい)Ⅱ」山下 渉登
  2004年6月1日発行 法政大学出版局

 上記の本によれば、戦前、多国籍企業「ユニリバー社」は毎年40万トンの鯨油を購入し、うち20万トンはドイツの工場でマーガリンに加工されていた。マーガリンの生産は世界一で1932年52万6000トン(国策で生産が減少した1934年でも36万トン)、バター生産でも米国についで第2位で(にもかかわらず大量の輸入国であった)、1932年48万9000トン、1934年52万3000トンのバターを生産した。植物油の原料の実や種の最大輸入国であり、油脂輸入量は年間120~130万トンで、ヨーロッパ全体の輸入量の30%以上を占めていたとある。
 という事はドイツ人はやたら油を食べる民族なんだ。たしかに、本格的なライ麦パンなどバターやマーガリンでも多量に塗らなければ喉を通るものではない。
 ドイツの仮装巡洋艦「Pinguin」は1941年1月14日、南氷洋でノルウェイーの捕鯨工船「Ole Wegger(12,201BRT)」「Solglint(12,246BRT)」「Pelagos(12,083BRT)」の3隻と捕鯨船PolⅦ、PolⅧ、PolⅡX、PolⅠX、StarXⅣ、StarXⅠX、StarXX、StarXXⅠ、StarXXⅡ、StarXXⅢ、StarXXⅣの11隻を捕獲した。これが日本であれば船舶が目的であろうが、ドイツの求めていたのは補給用の10,500トンの燃料油と20,500トンの鯨油だった。
 なお、ナチスドイツの第1回の一週間分物資配給量(切符統制の配給量)の油脂、乳製品を見てみると、
1、バター(全部マーガリンである)        80g
2、炊事用油脂(ヘッド、ラード、サラダ油の類) 190g
3、チーズ、及び一般牛乳製品          62.5g
で統制前の自由消費当時の中流家庭の消費一人あたりに対して35%以下である。

引用・参考文献

「AXIS BLOCKADE RUNNERS」MARTIN BRICE

「ナチス 独逸の解剖」森川 學三

昭和十五年九月二十八日発行 コロナ社

「癈兵」

 「癈兵」と聞いて、子供の頃、お祭りの夜に露店の間に、白衣を着、眼帯を付けたり、松葉杖をついたりし、アコーディオンやハーモニカに合わせ軍歌を歌っていた人達をおぼろげながら思い出す。
 日露戦争時の従軍者を調べていると、負傷や疾病により兵役免除になった人達を多く目にする。後備歩兵第三十八聯隊を調べていて見出した

「京都府誌 下」 大正四年十月二十二日発行
  京都府

に日露戦争における京都府の「癈兵」の記録を見つけた。

癈病兵並に其の家族調査表 (明治三十九年五月一日現在)
癈兵(重傷にして業務に就く能はざるもの)  212名
   同上家族                   882名
  (うち救護を要する癈兵)         44名
  (うち救護を要する癈兵の家族)     130名
癈兵(軽傷にして上欄の程度に至らざるもの) 225名
   同上家族              1024名
病兵                    165名
  (うち救護を要する病兵)         12名
   同上家族               704名
  (うち救護を要する病兵の家族)      41名
合計
癈病兵                   602名
  同上家族              2061名
  (うち救護を要する癈病兵)        56名
  (うち救護を要する癈兵の家族)     171名

このうち、戦傷に因るものはもちろん、特に多かったのは凍傷(森林太郎も日露戦争時の凍傷については記録を残している)である。病気ではやはり脚気が多く、兵役免除で帰郷しても多くの兵が亡くなっている。そして、当時有効な治療法もなかった結核によるものも多かった。

歩兵第三十五聯隊.NO.2

 「富山聯隊史」 富山聯隊史刊行会
    昭和六十一年十一月十七日発行
より
 日露戦争時、第九師団歩兵第三十五連隊は富山県出身者で編成された。前に書いた「歩兵第三十五聯隊」より詳しい内容なので書き写す。
旅順攻囲戦での主な戦闘と損害を書き写す。

前進陣地攻略戰
 凹字形山の緒戦・第一大隊(明治37年7月26~28日)
 戦死者数         46名
 戦傷者数        104名

鞍子嶺の占領・第二大隊(明治37年7月26~28日)
戦死者数          7名
戦傷者数         26名

于大山戦闘(明治37年7月30日)
戦死者数         78名
戦傷者数 中村聯隊長以下326名
     

盤龍山東堡塁(明治37年8月21~24日)
戦死者数        449名
戦傷者数       1128名
 残存兵力 将校       3名
      下士官     41名
      兵卒     403名

対壕作業(明治37年8月25日~10月25日)
戦死者数         48名
戦傷者数        100名
 
旅順要塞第二回総攻撃・一戸堡塁(明治37年10月30日)
戦死者数         89名
戦傷者数        264名

旅順要塞第三回総攻撃・旧囲壁(明治37年11月26日)
戦死者数        302名
戦傷者数        268名

旅順要塞第三回総攻撃・白襷隊・第二大隊(明治37年11月26~27日)
戦死者数        352名
戦傷者数        384名

望台西北H高地占領(明治38年1月1日)
戦死者数         49名
戦傷者数         89名

第九師団日露戦役戦死者数
 第三十五聯隊     1786名
 第三十六聯隊     1694名
 第十九聯隊     約1500名
 第七聯隊       1394名
 その他        約630名

富山県日露戦役従軍者
 戦地勤務      19173名
 内地勤務       1184名
富山県人日露戦役戦死者 2401(うち海軍50)名
富山県人日露戦役靖国神社合祀戦死傷者
            2595名

 今まで旅順攻囲戦参加連隊の損害を調べてきたが、初めて対壕作業での戦死傷者の数字が出てきた。両軍が対峙し大きな戦闘は無くとも、砲撃は日常的にあり、小戦闘も存在していたのである。