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	<title>座敷牢</title>
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		<title>燃料協會誌</title>
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		<pubDate>Thu, 15 Sep 2011 05:40:15 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[　実のところ、日本の戦時中の航空燃料生産については、「陸軍燃料廠史　岩国編」・「陸軍燃料廠史　技術編　満州編」・「日本海軍燃料史（上）（下）」を読んでも、概略さえ見えてこない。それも、これも南方での航空燃料生産に関する記述が圧倒的に少ない事に起因する。 　南方での航空燃料生産を類推する手掛かりとして、昭和１８年に発表された「燃料協會誌第２５０號」に書かれた陸軍燃料廠陸軍中佐　明石　正水氏の「パレムバンの製油所」（明石報告）という日本占領前の航空燃料生産に関する論文が最も役に立つ。これにより、戦前のパレンバンでの航空燃料生産のレベルや品質を窺い知る事が出来る。姫は「明石報告」を 　「南方産業技術総覧」昭和１９年６月２０日発行　山海堂 　（古書市や大きな図書館で意外と見る事が出来る。千円か二千円で買ったと思うが、内容的には数万円の価値があると思う。） に転載されたもので読んでいた。「燃料協會誌」にパレンバンの記述があるのであれば、バリックパパンやその他の製油所のもっと詳しい（それなりの記述は散見される）記述があるのではと無いかと思い立ち、昨日、市内某所に「燃料協會誌」のバックナンバーを見に行ってきた。そこには、バックナンバーが全部揃えてあり、コピー（有料）もやり放題なのだが、コピー機が無いので、質札として運転免許証を預け、製本した分厚い「燃料協會誌」を抱えて、遠く離れたコピー機のある場所まで歩いていかなければならないという体力のいる所だった。で、結果からすると他の製油所の航空燃料生産に関する記述は見つからなかった。目を通したのは、昭和１５年、昭和１６年、昭和１７年、昭和１８年、昭和１９年、昭和２０年、昭和２１年だったのだが、それなりに面白い資料を見る事が出来た。 　内容は人造石油、松根油、潤滑油、石油の接触分解など実験室での研究レポートが多いのだが、それは当時の日本の情況を見れば、量産など不可能ですよ。と云っているのと同じで、ある意味心の折れる内容だった。石炭や天然ガス、木炭などの記述もあったのだが、今回は時間がなかったので封印してきた。 　最近、独逸を始めとした枢軸国側の資源に関心を持ち、邦文で書かれた資料をちょこちょこ捜しているのだが、今回も少しは為になる話があったので、姫的に面白いと思った話を少しだけ紹介する。 １．ポーランド分割の独ソ協定の結果ドイツは１９３８年の年産に於いて１３６，４５０噸を出したヤスロー油田を、ソ連は同３７０，８００噸を出したドロホビッツ及びスタニスラオー油田を獲得した。 ２．ドイツはルーマニアからダニューブ河（冬期結氷）を通って石油を輸入。戦前の予測では１カ年最大１００万～１３０万噸 ３．１９３８年ソ連の石油輸出は１１５万噸に低下（１９３２年６１０万噸）。ドイツへの輸出余力はさほどない。 ４．ダニューブ河油槽船国籍、隻数、噸数 ドイツ　　　　　１２８隻　　９０，６７５噸 ユーゴスラビア　　４２隻　　３１，７１１噸 フランス　　　　　１４隻　　　９，７４２噸 ブルガリア　　　　　８隻　　　６，８００噸 ルーマニア　　　　５６隻　　２６，８５７噸 イギリス　　　　　３０隻　　２２，３６９噸 ハンガリー　　　　１５隻　　１０，４０８噸 ベルギー　　　　　　２隻　　　１，５００噸 スイス　　　　　　　２隻　　　１，０２０噸 オランダ　　　　　　１隻　　　　　１７２噸 合計　　　　　　２９８隻　２０１，３１５噸 （オイル・アンド・ガス・ジャーナル1939年12月28日號） ５．イタリアの原油生産高は１９３８年１３，０００トン（アルバニアは６５，０００トン）これらの原油は一般にアスファルト性で硫黄分も多い。水素添加が必要。 ６．イタリアの燃料用アルコール製造量は１９３７年度に無水アルコール３万トン。同国における砂糖の需要が増大した結果、アルコールの原料が不足し、燃料用アルコールの増産は不可能 ７．戦前、エストニアには隣接諸国よりシェールガソリン（油母頁岩油）の買い付けが殺到し、同国のシェール油工業は戦争景気に活況を呈して来たが、これに対し５０％の応需力しかない。 お知らせ ここを維持するに当たり、娘からＰＣを借りているのだが、１０月に娘が大阪に転勤する事がきまった。と云うわけでここを書く手段が無くなったので、お休みします。妻より皆様の電話番号を全て消去されるという情けない状態にあり（どうか電話しないで下さい）当然ここのパスワードも虚空の彼方に消えていったし、感想メールも１本もこないけれどもどっこい生きていきます。 　ところで「貴君」ってオレのことか？]]></description>
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		<title>パレンバンの航空燃料生産</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Aug 2011 07:17:58 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[　ある質問コーナーに日本占領下にあったパレンバンが、どれくらい航空燃料生産に役にたったか問い合わせがあった。そんな事が簡単に分かる位なら誰も苦労はしない。質問者の想像であれば戦艦大和と同じく、それはそれは日本の製油技術も製造量も立派だったと云って欲しかったのであろうが、やっぱり、そこは日本なのである。 　私の知る範囲内でパレンバンの製油量を詳しく書いた邦文は存在しない。そこで、 「　 太平洋戦争白書　第19巻 　　THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURRVEY 　　　　　　　　　 Oil and Chemical Division 　　　　　　　　　　　　OIL IN JAPAN’S WAR　　　　　　　　　　　　　　 」 　１９９２年６月２５日発行　　日本図書センター から、一部存在する（ルトン、チャプーなどの石油精製量は何処にあるのだろう？）南方の製油所の石油精製量を調べ、エクセルを使い表にして見た。上記の英文は 「　　アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告 　　　　　　　日本における戦争と石油　　　　　　　　　」 　　　　　　奥田英雄・橋本啓子訳編　　石油評論社 という邦文にまとめられているのだが、南方の石油精製についてはすっぽり抜けている。訳者達の想いと姫の石油に対する想いが違うので、「日本における戦争と石油」の考え方が実に中途半端な形になってしまっている。 　これより、年度ごとのパレンバン第一製油所、パレンバン第二製油所、と参考に北スマトラ、バリックパパン、海軍燃料廠、陸軍燃料廠、日本石油の航空燃料生産を書き写すが、原本は月毎の記録が載っており、エクセルでまとめたのだが、ここにエクセルを写す方法を知らないので、年度ごとの記載にとどめる。なお、原本の単位はバーレルだったが、１バーレル＝１５９Ｌに換算し、編集した。さらに、これらの元の数値は終戦のドサクサに焼かれ、戦災を被っているのでおそらくアバウトな数値だと思われるが、実数（もはや誰も分からないし、興味もない）とそれほどかけ離れてはいないと思う。 　南方燃料廠　南スマトラ支廠（パレンバン） 　　第一製油所【旧PBM　プラジュー（PADJOE）製油所】 １９４２年６月～１９４３年３月 　　２５６，６００ＫＬ １９４３年４月～１９４４年３月 　　３７９，５００ＫＬ １９４４年４月～１９４５年３月 　　４１１，９７０ＫＬ １９４５年４月～１９４５年７月 　　　４８，３００ＫＬ 合計 　１，０９６，５００ＫＬ 　南方燃料廠　南スマトラ支廠（パレンバン） 　　第二製油所【旧NKPM　スンゲィゲロン（SOENGAIGERONG）製油所】 １９４３年６月～１９４４年３月 　　　７７，０００ＫＬ １９４４年４月～１９４５年３月 　　１５２，６００ＫＬ １９４５年４月～１９４５年７月 　　　２４，３００ＫＬ 合計 　　２５３，９２３ＫＬ 　南方燃料廠　北スマトラ支廠 　　北スマトラ製油所【旧パンカンブランタン（PANGKALNBRANDAN）製油所】 １９４３年５月～１９４４年３月 　　１３２，３００ＫＬ １９４４年４月～１９４５年３月 　　　９１，１００ＫＬ [...]]]></description>
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		<title>大豆</title>
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		<pubDate>Mon, 08 Aug 2011 12:05:56 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[　三菱商事の社史を読んでいると、第２次大戦勃発後もシベリア鉄道を経由して、満州産大豆を輸入している事が分かる。 　「東欧経済史」I.T.ベランキ　Ｇ．ラーンキ　共著　監訳　南塚信吾 　　１９７８年５月３０日発行　中央大学出版部 の中で「ドイツ戦時経済体制のもとで」という章が設けられている。この章で東欧諸国のナチスドイツとの経済的協力について触れられているのだが、ブルガリアとハンガリーがドイツが求める大豆（油性種子）の生産を行った。てっきりマーガリンの材料として、独ソ開戦後、満州大豆の代替品として作られるようになったのかと思えばそうではなかった。 　ドイツでの大豆の利用目的として当然、搾油がメインと思っていたが、実は油を絞ったあとの豆粕も重要だった。当時のドイツでは食糧の自給は出来なかった、ドイツの農業といえば豚や牛の飼育など畜産を思い浮かべるが、実際その飼料、特に高蛋白な油粕は輸入に頼っていた。 ドイツの飼料の輸入は１９２８年、５００万噸で １９３１年 　燕麦　　　６７万噸 　玉蜀黍　　３６万噸 　糠　　　　１３万噸 　油粕　　１８６万噸 　穀物屑　　１７万噸 　魚粉　　　　８万噸 　其の他　　１０万噸 　合計　　３３７万噸 となっている。 油を絞る為の油料子実の輸入量を見れば、 １９３３年 　大豆　　　　　　　　　　１１７．１万噸 　亜麻仁　　　　　　　　　　３５．８万噸 　落花生　　　　　　　　　　２６．４万噸 　パームカネル　　　　　　　２４．８万噸 　コプラ　　　　　　　　　　１２．１万噸 　其の他　　　　　　　　　　　６．８万噸 　合計　　　　　　　　　　２２３．０万噸 　となっている。 　これらの油料子実から搾油した油粕の生産量は １９３３年 　大豆抽出粕　　　　　　　　９６０，１００噸 　亜麻仁粕　　　　　　　　　２３２，０００噸 　落花生粕　　　　　　　　　１７３，７００噸 　棕櫚粕（パーム）　　　　　１２９，１００噸 　椰子粕　　　　　　　　　　　４２，４００噸 　菜種粕　　　　　　　　　　　１５，２００噸 　向日葵粕　　　　　　　　　　１１，６００噸 　大麻子粕　　　　　　　　　　　７，９００噸 　罌粟核粕　　　　　　　　　　　４，４００噸 　綿実粕　　　　　　　　　　　　　　１５０噸 　合計　　　　　　　　　１，５７９，７５０噸 　となっている。 さらに、ドイツ国内で搾油した油粕だけでは足りなく １９３３年 　落花生粕　　　　　　　　　１２８，２００噸 　大豆粕　　　　　　　　　　　９６，０００噸 　亜麻仁粕　　　　　　　　　　８５，５００噸 　椰子粕　　　　　　　　　　　７４，２００噸 　綿実粕　　　　　　　　　　　４４，６００噸 　向日葵粕　　　　　　　　　　４３，７００噸 　棕櫚粕　　　　　　　　　　　３４，７００噸 　菜種粕　　　　　　　　　　　１５，２００噸 　大麻子粕　　　　　　　　　　　７，９００噸 　其の他油粕　　　　　　　　　１３，３００噸 　輸入合計　　　　　　　　　５２７，４００噸 　輸出合計　　　　　　　　　　６７，４００噸 　差引輸入超過　　　　　　　４６０，０００噸 [...]]]></description>
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		<title>ノーム・ローンエンジン</title>
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		<pubDate>Sat, 06 Aug 2011 12:44:27 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[　「第二次世界大戦とフランス領インドシナ―「日仏協力」の研究―」 　　　著者　立川京一　彩流社　２０００年５月２５日発行 をたまたま読んでいると、フランスの「対独協力の実際とその成果」について書かれていた。最近、ドイツ占領下の国々や同盟国の軍需生産、資源をチマチマ調べている人間には堪えられない話だった。この文の参考文献に 　「西洋史学　166号 　　　　占領下フランスにおける対独経済協力 　　　　　―航空機生産共同計画をめぐって―　　　剣持久木（５３Ｐ）」 と云う論文がある事を知り、捜してきた。 　昔、ウィーンの空港で飛んでるところを見た事があるＪｕ－５２を、エンジン毎、フランスで作っていた事を初めて知り、てっきり完成後、押収したエンジンを載せていたと思っていた大好きなヘンシェルＨｓ１２９のノーム・ローンエンジンがわざわざ新造されていたことを知り驚いた。 　上記論文によればドイツ向けに新造されたエンジンの数は １９４１年 　　フランス型（ノーム・ローン等）　　　１，９２７基 １９４２年 　　フランス型（ノーム・ローン等）　　　１，２４７基 　　ドイツ型（ＢＭＷ１３２等）　　　　　　　 ７５１基 １９４２年 　　フランス型（ノーム・ローン等）　　　２，３１０基 　　ドイツ型（ＢＭＷ１３２等）　　　　　 ２，６６９基 １９４２年 　　フランス型（ノーム・ローン等）　　　　　６７８基 　　ドイツ型（ＢＭＷ１３２等）　　　　　 １，６３７基 合計 　　フランス型（ノーム・ローン等）　　　６，１６２基 　　ドイツ型（ＢＭＷ１３２等）　　　　　 ５，０５７基 となる。 　さて、実際にノーム・ローンエンジンを搭載した機体の生産数から、エンジンの必要数を割り出すと、予備・補用を考慮に入れなくても 　ヘンシェルＨｓ１２９　　　　　ノーム・ローン１４Ｍ（７００hp） 　　１９４２年　２１９機 　　１９４３年　４１４機 　　１９４４年　２２５機 　　　　合計　　８５９機　　１，７１８基 　メッサーシュミットＭｅ３２１/３２３　ノーム・ローン１４Ｎ（１，１４０hp） １９８機　　１，１８８基 　Ｇｏ２４４Ｂ　　　　ノーム・ローン１４Ｍ４/５ 　　　１３３機以下　　２６６基 　　 　合計　　３，１７２基 となり、けっして少ない数字ではなかった事がわかる。（それに比べて日本の占領地の貧しいこと・・・・・） 引用・参考文献 「航空ファン別冊　Ｎｏ．49 　　第二次大戦ドイツ軍用機」 　　平成元年１０月５日発行　文林堂]]></description>
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		<title>軍服の材料　ＮＯ．３</title>
		<link>http://stanza-citta.com/hime/2011/07/27/427</link>
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		<pubDate>Wed, 27 Jul 2011 06:05:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>hime</dc:creator>
				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[　ヨーロッパにあれだけ羊さんたちがいるのに、なぜ羊毛が自給出来ないのか不思議に思っていた。そうすると、どこからともなく答えが出てくる。 「　南方経済総覧　第十二巻 　　　オーストラリア・ニュージーランドの経済資源　」 　　著作者　金子鷹之助　清川政二 　　昭和十八年三月五日発行　東亜政経社 という本で豪州（オーストラリア）とニュージーランド（新西蘭）の羊毛生産について触れられている。 「豪州の牧羊業の世界的地位を論ずる場合、単に羊頭数並びに産毛量のみを以つてするは妥当性を欠くと云う事である。即ち「量」の側からのみではなく、此処に更に「質」の側よりする観察を加える必要があると云う事である。何故ならば羊頭数のみを以てするならば、満蒙、支那、印度或はソヴィエツト・ロシアの羊頭数は次の如く 　ロシア　　　８，４５０万頭 　支那・満蒙　３，８００万頭 　印度　　　　５，０００万頭 合計１億７千万頭と云う厖大な数字になるが、一度これを立場を変えて「質的」な立場から観察するならば、之れ等の国の牧羊業は従来何れも羊毛を目的とせず、羊肉・羊皮を目的とせるものなる為に、その産毛は殆んど全部が所謂「カーッペット・ウール」であり、粗悪にして「死毛」多く、絨毯用以外には紡績用としては不適当なものが多いからである。」 と云う事は、ヨーロッパの羊は主に食肉用として生産されていた事がわかる。 　ついでなので、この本に書いていた面白い統計を書き写す。 　世界に於ける羊産毛量統計 　　　　　（年度不明　単位　脂付１００万ポンド） 豪州　　　　　１，０２３ 北米合衆国　　　　４５５ アルゼンチン　　　３８０ 新西蘭　　　　　　２９７ ソ連　　　　　　　２５９ 南阿連邦　　　　　２４６ 支那　　　　　　　１１０ ウルグアイ　　　　１１０ 英国　　　　　　　１０７ インド　　　　　　１００ 　世界に於ける紡績用羊毛主要産出国統計 　　　　　（１９３８～３９年度　単位　脂付１００万ポンド） 豪州　　　　　　９８５ 新西蘭　　　　　３２９ アルゼンチン　　３９４ ウルグアイ　　　１１４ 南阿連邦　　　　２６４ 北米合衆国　　　４５７ 英国　　　　　　１１０ 　更に紡績用羊毛の中でも、最も優良な原料と云われる「メリノ羊毛」の生産量を見てみれば 　世界に於けるメリノ羊毛産出量 　　　　　（１９３７～３８年度　単位　脂付１００万ポンド） 豪州　　　　　　８３３ 南阿連邦　　　　２４１ 北米合衆国　　　２２７ アルゼンチン　　　５３ ウルグアイ　　　　１５ ハンガリー　　　　１４ ドイツ　　　　　　１３ 新西蘭　　　　　　１２ フランス　　　　　　８ （このほかにスペインより年産約１２００万ポンド産出されるが統計不備の為、除外） 自国消費を除いた輸出能力を見れば 　世界「輸出羊毛」統計 　　　　　（１９３８～３９年度　単位　１，０００俵） 豪州　　　　　　２５８３．７　　　４８．２％ 新西蘭　　　　　　６５６．１　　　１２．２％ 南阿連邦　　　　　７９０．０　　　１４．７％ 南米　　　　　　１２３４．０　　　２３．０％ 英国　　　　　　　１０１．９　　　　１．９％ [...]]]></description>
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		<title>軍服の材料　ＮＯ．２</title>
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		<pubDate>Tue, 12 Jul 2011 05:40:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>hime</dc:creator>
				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[　最近、第２次大戦中の枢軸国やその占領国、周辺の中立国の経済、資源などに興味を持ち、調べている。その中でも、軍需でも民需でも不可欠な衣料品の原料はどうなっていたのであろうかと拾い読みをしてみた。 　アジア歴史資料センターの中に 「　駐在員報告　　昭和十九年六月 　　　欧洲紡績品補給情勢ニ関スル調査報告 　　　　　独逸国駐在員　陸軍主計大佐　阿久津　正蔵　」 　というきわめつきに面白い一次資料がある。 　日本でもドイツでも当然イタリアでも綿花生産（ドイツで綿花は採れるのでしょうか？）はその必要量にまったく足りなかった。化学繊維の発達が充分でなかった（人絹・スフがあったにしてもその品質は充分ではなかった）当時、綿花と羊毛は重要な衣料品の原材料だったのだが、そのほとんどを輸入しなければならない状態だった。綿花はしょうがないとしても、羊毛すらヨーロッパで自給出来ないことを上記の資料で知ったことは実際驚きだった。 　綿花の輸出国として、戦前、アメリカ、インド、エジプトなどが知られ、枢軸国でも当然それらの国から輸入していた。日本でいえば、これに中国が加わり、大戦中それなりの移入（収奪）していたのだが、絶対量には程遠く、短繊維という品質的問題も抱えていた。 大戦勃発後は中国を始め、占領地で綿花の大増産を計画し実施するのだが、そのほとんどが失敗し、日本国内だけではなく、占領地でも衣料品を供給することが困難になり、占領地の民衆の日本離れをさらに加速させた。日本占領下フィリピンでの綿花栽培の失敗は、ミリタリーマニアには知られていないが、代表的なものであり、 「日本占領下のフィリピン」編者　池端雪浦 　　１９９６年７月２６日発行　岩波書店 　―第五章　綿花増産計画の挫折と帰結―　　永野善子 　　Ｐ１８５～Ｐ２１７ に詳しく書かれている。 　ヨーロッパに目を向けてみれば、ドイツ占領下のウクライナからかなりの綿花を入手したとの話もあるが、その詳細は分からない。そこで探してみたところ、戦前の日本語で書かれた綿花の動きを推測することが出来る資料を二点図書館で見つけた。 　「調第一七八號　昭和十四年六月 　　　防共協定國國情調査　第十四號　 　　　　　伊太利の國防資源と軍需工業　 　　　　　　　　　　　　　外務省調査部」 　イタリアも当時の日本と同じく輸入した原料をもとに紡績業で外貨を稼ぐとういう構図が出来上がっていた。（自国産の絹で外貨を稼ぐことも） １９３７年の綿花輸入実績を見てみれば（単位キンタル） 　アメリカ　　　　　　９７７，６２４ 　エジプト　　　　　　２９６，０２６ 　インド　　　　　　　１７５，３２５ 　ブラジル　　　　　　　６８，４３１ 　パラグアイ　　　　　　４４，０００ 　トルコ　　　　　　　　２６，６５７ 　ペルー　　　　　　　　２０，０６０ 　その他 　合計　　　　　　１，６５４，００３ となり イタリア植民地からの綿花輸入量を見れば １９３３年 　ソマリア　　　　　　　　６，５９１ 　エリトリア　　　　　　　２，５３１ １９３４年 　ソマリア　　　　　　　　９，７４９ 　エリトリア　　　　　　　１，６２２ １９３６年 　ソマリア　　　　　　　　４，１７８ 　エリトリア　　　　　　　１，０９４ １９３７年 　ソマリア　　　　　　　　２，７０７ 　エリトリア　　　　　　　　　３７２ となり、数量は微々たるものでも、植民地にもそれなりの思い入れがあったらしい。 　さらに、興味深いのは人造繊維（人絹・スフ）の使用で、１９３７年、綿糸工業での原綿１４５万キンタルの使用に対し、人造繊維の混合量は６８万キンタル。綿布工業での綿糸８７万キンタルの使用に対し、人造繊維の混合量は５２万キンタルとなっている。 　上記輸入国の１つでもあるトルコの資料として 「　土耳古經濟事情竝ニ日本トノ貿易事情 　　　商工省貿易局　　昭和十一年第七號　」 というものがある。 　主要輸出品として、葉煙草、乾葡萄、麦類と並んで、１９３４年、綿花１３，２７９トンの数字が挙げられている。（羊毛は７，９６６トン）また、この冊子では一節をもうけ、「本邦（日本）ヘノ重要輸出品ニ付其ノ生産並ニ輸出状況」の中で綿花について触れている。 　ドイツ、イタリアで広範囲で使われていた人造繊維（人絹・スフ）の材料であるセルローズ（木材パルプ）実は自国内での生産では足りず、北欧諸国からの輸入も重要だった。 アジア歴史資料センターで見られる 「外務省通商局日報　第一號　昭和十八年一月四日 ―瑞典一九三四年度の瑞獨貿易取極成立發表―」 [...]]]></description>
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		<title>後備歩兵第一旅団・後備歩兵第四旅団人員構成</title>
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		<pubDate>Fri, 01 Jul 2011 06:04:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>hime</dc:creator>
				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[　「日露戦争統計集　第８巻 　　　『（軍事機密）明治三十七八年戦役統計』改題　」 　　編纂　陸軍省 　　復刻版解説　大江志乃夫 　　１９９５年６月３０日　復刻版発行　原書房 市内のとある図書館で見つけた。アジア歴史資料センターで公開していただければ、いいのだけれども、しがらみからそうもいかないのだろう。 　日露戦争といっても旅順攻囲戦と後備役と脚気と屯田兵しか関心のない、市井の無知なミリタリーマニア、経済的事情と周囲の厳しい視線の為、なかなか勉強することもままならない。旅順攻囲戦で甚大な被害をだした。第九、第十一師団に劣らず、実はもっと悲惨な状況を迎えていたと思われる後備歩兵第一旅団と後備歩兵第四旅団、その損害は書き写してきたのだが、編成人員を把握していた訳ではなかった。上記の本はやたら数字だけがならんでいる司馬遼太郎なら跨いで通る内容なのだが、数字を写すのが好きな私には堪らない。 Ｐ４５３～４５４ 　第三十　出征部隊應役人員月別 　　　　　　三十七年六月盡日 後備歩兵第一旅団 　後備歩兵第一旅団司令部 　　　将官　　　　　　　　　　　　１ 　　　士官　　　　　　　　　　　　２ 　　　下士　　　　　　　　　　　　２ 　　　輸卒　　　　　　　　　　　　３ 　　　計　　　　　　　　　　　　　８ 　　獣医部　 　　　士官　　　　　　　　　　　　１ 　　従卒　　　　　　　　　　　　　６ 　　馬卒　　　　　　　　　　　　　４ 　　軍属 　　　将校同等文官　　　　　　　　１ 　　　下士同等文官　　　　　　　　３ 　　　軍役夫　　　　　　　　　　　１ 　合計　　　　　　　　　　　　　２４ 　後備歩兵第一連隊 　　　上長官　　　　　　　　　　　３ 　　　士官　　　　　　　　　　　３４ 　　　准士官　　　　　　　　　　１０ 　　　下士　　　　　　　　　　１３７ 　　　兵卒　　　　　　　　　１５８８ 　　　輸卒　　　　　　　　　　１１２ 　　　計　　　　　　　　　　１８８４ 　　経理部 　　　士官　　　　　　　　　　　　２ 　　　下士　　　　　　　　　　　　２ 　　　計　　　　　　　　　　　　　４ 　　衛生部 　　　士官　　　　　　　　　　　　４ 　　　下士　　　　　　　　　　　　２ 　　　看護手　　　　　　　　　　　８ 　　　計　　　　　　　　　　　　１４ 　　馬卒　　　　　　　　　　　　１３ 　　軍属 　　　下士同等文官　　　　　　　　１ 　　　軍役夫　　　　　　　　　　　２ 　合計　　　　　　　　　　　１９１８ 　後備歩兵第十五連隊 　　　上長官　　　　　　　　　　　３ 　　　士官　　　　　　　　　　　３６ 　　　准士官　　　　　　　　　　　８ 　　　下士　　　　　　　　　　１４０ 　　　兵卒　　　　　　　　　１６０５ 　　　輸卒　　　　　　　　　　１１１ [...]]]></description>
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		<title>推理小説</title>
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		<pubDate>Mon, 27 Jun 2011 04:27:43 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　「リスボンの小さな死　上」ロバート・ウィルスン　訳者　田村　義進 　　２０００年９月３０日発行　ハヤカワ文庫 　通勤途中の地下鉄の中での読書だけが懲りない趣味との繋がりだった。会社の前にあるブック・オフから￥１０５で買い求めた本からでも世界は広がる。 　この本の上巻ではポルトガルのタングステンとドイツの関係が舞台となる。大戦前、ドイツが入手していた中国を始めとしたアジアやボリビアを始めとした中南米からのタングステンは大戦勃発後そのルートを絶たれる。 　「中立国の戦い」　飯山　幸伸 　　２００５年８月１５日　光人社ＮＦ文庫 でも軽く触れられていたのだが、大戦勃発後はポルトガル、スペインから取得されるようになる。（絶対量にはまったく不足していたが） 　これらの事情はアジア歴史資料センターで見られる（探し出すまでが大変だった）一次資料からもうかがい知ることが出来る 　「秘　昭和十四年十一月 　　　重要鑛産資源ニ關スル調査　第一輯 　　　　　　　　　　　　　外務省通商局」 　「秘　昭和十四年十一月 　　　重要鑛産資源ニ關スル調査　第二輯 　　　　　　　　　　　　　外務省通商局」 　「極秘　昭和十五年十二月 　　　　獨逸に於ける石炭、金属及び石油需給問題 　　　　　　　　　　　　　　　　　外務省調査部」 　「世界情勢ノ動向　第２巻　第３巻」 　「外務省通商局日報」 　そうすると、周辺中立国の鉱産資源や軍需工業さらには、ドイツ占領下の国々の鉱産資源や軍需工業ととめどもなく想いは広がり、ああ～フランスの鉱産資源、枢軸国の鉱産資源、トルコの鉱産資源（クロム）と農産資源は？となるのである。 　諾威 ニッケル鉱　１９３７年主要鉱山名及産出品位 会社名 Raffineringsverket A/S avd. Evje 所在地 Efnje 産出量（単位噸）　１５，９６３ 品位　Ni 0.572　Cu 0.379－3.059 会社名 Raffinering verket AIS avd. Hosanger 所在地 Hosanger 産出量（単位噸）　　６，１８４　　 品位 Ni 5.823 Cu 2.185 などの記録を見ても、おそらく全量ドイツで使われるようになったんだと想像する。 　そして２年ぶりに図書館に行ったりすると 　「中立国スイスとナチズム－第二次大戦と歴史認識」 　　原著者　独立専門家委員会　スイス＝第二次大戦 　　編訳者　黒澤隆文 　　訳著者　川崎亜紀子　尾崎麻弥子　穐山洋子 　　平成２２年１１月１０日発行　京都大学学術出版会 という本が並んでいて、ドイツのハチハチが優秀なのはスイスの信管のおかげだったのかと理解する事になるし、水力発電の有難味が分かる。]]></description>
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		<title>寄せ集めの第七師団　ＮＯ．6</title>
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		<pubDate>Thu, 23 Jun 2011 05:46:09 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　世間は広いようで狭い、日露戦役当時、郷土部隊と呼ぶにはあまりにも少ない北海道出身者（その多くも道外で出生され、北海道に移住されてきたと思われる）と多くの道外出身者で構成された第７師団、きちんと学問的に研究なされ、論文にしている方がちゃんといらっしゃった。 　　「年報　新人文学【第六号】 　北海道のおける徴兵制の展開　―「国民皆兵」の虚実― 　　　　　　　　　　　　　　　　　　阿部　剛　　　　」 　編集者　北海学園大学大学院研究科「年報　新人文学」編集委員会 　平成２１年１２月３１日発行 　 　この論文のなかのＰ１５６に第７師団の年度ごと師管別徴集現役兵数の表があったので日露戦役ごろの様子を書き写す。 明治３４年 　第７師管現役兵数　　　　８７６　A 　第１師管現役兵数　　１，２００ 　第２師管現役兵数　　　　４４９ 　第８師管現役兵数　　　　１８０ 　合計　　　　　　　　　　２，７０５ B 　A/B ３２．４％ 明治３５年 　第７師管現役兵数　　　　９０９　A 　第１師管現役兵数　　２，２０２ 　第２師管現役兵数　　　　７５１ 　第８師管現役兵数　　　　１８４ 　合計　　　　　　　　　　４，０４６ B 　A/B ２２．５％ 明治３６年 　第７師管現役兵数　　１，０００　A 　第１師管現役兵数　　１，９６３ 　第２師管現役兵数　　　　４４４ 　第８師管現役兵数　　　　１１２ 　合計　　　　　　　　　　３，５１９ B 　A/B ２８．４％ 明治３７年 　第７師管現役兵数　　１，０１０　A 　第１師管現役兵数　　１，９１６ 　第２師管現役兵数　　　　７０３ 　第８師管現役兵数　　　　　２５ 　合計　　　　　　　　　　３，６５４ B 　A/B ２７．６％ 明治３８年 　第７師管現役兵数　　１，０５７　A 　第１師管現役兵数　　１，８２１ 　第２師管現役兵数　　　　７００ 　第８師管現役兵数　　　　　７６ 　合計　　　　　　　　　　３，６５４ B 　A/B ２８．９％ 　ちなみに第１師管（東京）、第２師管（仙台）、第８師管（弘前）の徴兵先は・・・・・]]></description>
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		<title>第七師団と奉天会戦</title>
		<link>http://stanza-citta.com/hime/2011/06/20/392</link>
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		<pubDate>Mon, 20 Jun 2011 04:55:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>hime</dc:creator>
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		<description><![CDATA[「明治卅七八年日露戰史　第九巻」参謀本部編纂 　　大正二年七月二十日発行 　より、奉天会戦の第七師団の損害を書き写す。 ●（明治３８年２月２７日～２８日） 歩兵第二十五連隊第一大隊 　戦傷　　　　将校　　　　　１　 　　　　　　　　下士卒　　　　４ 　戦傷合計　　　　　　　　　５ 歩兵第二十五連隊第二大隊 　戦死　　　　下士卒　　　　３ 　戦傷　　　　将校　　　　　１　 　　　　　　　　下士卒　　　１７ 　戦傷合計　　　　　　　　１８ 　戦死傷合計　　　　　　　２２ 歩兵第二十五連隊第三大隊 　戦傷　　　　　下士卒　　　　１ 歩兵第二十五連隊 　戦死合計　　下士卒　　　　３ 　戦傷合計　　将校　　　　　２　 　　　　　　　　　下士卒　　　２２ 　戦傷合計　　　　　　　　２４ 　戦死傷合計　　　　　　　２６ 歩兵第二十八連隊第一大隊 　戦死　　　　下士卒　　　　６ 　戦傷　　　　将校　　　　　２　 　　　　　　　　下士卒　　　１２ 　戦傷合計　　　　　　　　１４ 　戦死傷合計　　　　　　　２０ 歩兵第二十八連隊第二大隊 　戦死　　　　下士卒　　　　３ 　戦傷　　　　将校　　　　　１　 　　　　　　　　下士卒　　　１３ 　戦傷合計　　　　　　　　１４ 　戦死傷合計　　　　　　　１７ 歩兵第二十八連隊 　戦死合計　　下士卒　　　　９ 　戦傷合計　　将校　　　　　３　 　　　　　　　　　下士卒　　　２５ 　戦傷総合計　　　　　　　２８ 　戦死傷総合計　　　　　　３７ 騎兵第七連隊第一中隊 　戦傷　　　　下士卒　　　　１ 騎兵第七連隊第三中隊 　戦死　　　　下士卒　　　　１ 　戦傷　　　　下士卒　　　　３ 　戦傷合計　　　　　　　　　４ 騎兵第七連隊 　戦死合計　　下士卒　　　　１ 　戦傷合計　　下士卒　　　　４ 　戦死傷総合計　　　　　　　５ 野戦砲兵第七連隊第三中隊 　戦傷　　　　下士卒　　　　１ 第七師団 　戦死合計　　下士卒　　　１３ 　戦傷合計　　将校　　　　　５ [...]]]></description>
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