Archive for 6月, 2009

第一歩、そしてトルエンをつくるNo.2

 今、市中で話題の本を妻に買っていただく

『歴史群像シリーズ 太平洋戦争③「南方資源」と蘭印作戦』

最近日露戦役と求職活動にのめり込んでいるので、こんな趣味を忘れていた。内容はアレダ。雑誌に資源問題を書くことに意義があるのであり、これらの検証は、やっと第1歩を踏み出したと理解するべきだろう。考えてみれば、姫も重箱の隅を突くような事をここに書き散らしており、世間様に認知されることも一切なかったわけだが、これからは、少しは皆さんに相手にしていただけるのではと期待する。(細かいことだけど、蘭印の鉄鉱石は、大戦中の日本の資源問題にはなんら関係しません。)
 ところで、上記の本を読み終わったら、第二次世界大戦の航空燃料(米独日)に関する最良の参考書

 「ガソリンの時代」熊崎 照
  2001年8月16日発行 ㈱オイル・リポート社

を思い出し、読みなおす。・・・あった・・・
 「トルエンをつくる」で幾ら巨大な製鉄量を誇っていても、アメリカはどうやって必要量のトルエンを入手していたんだろうと悩んでいた答えが。

ハイドロフォーミング
 ハイドロフォーミングの主な反応は、触媒の存在下、脱水素反応による芳香族炭化水素の合成である。通常触媒は酸化モリブテン・アルミナである。トルエンに適した原料は1939年になって初めて発見された。トルエンと航空ガソリンの混合材のためには主として狭いカットの原料(なるべくC・7またはC・7-8の沸点溜分)で運転する必要があった。
 第二次世界大戦前と戦中、8基のハイドロフォーミング装置が硝化級トルエンと航空ガソリン混合材をつくるため建設された。これらの装置の一つは軍のTNTに行くトルエンの半分以上を単独で製造した。トルエンの国内生産は1939年石炭からの9万4,633klであったが、1944年には78万7,355klを生産し、そのうち81%以上の63万9,721klは石油から製造された。(P344.345.346より抜粋)

寄せ集めの第七師団 NO.5

「忠魂録」より第七師団傘下並びに関連部隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。(なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。)

第七師団司令部
北海道   1
奏任待遇  1(福岡)
将校    2名
合計    4名

戦死者数  2名
戦病死者数 2名
合計    4名

歩兵第十三旅団司令部
熊本(馬卒)1

戦病死者数 1

第七師団衛生隊
北海道   5
新潟    2
神奈川   2
福島    1
茨城    1
群馬    1
長野    1
合計   15名
将校    1名
総合計  16名

戦死者数   4名
戦傷死者数  1名
戦病死者数 11名
合計    16名

第七師団第一野戦病院
北海道   4

戦傷死者数  1名
戦病死者数  3名
合計     4名

第七師団第二野戦病院
北海道   4
福島    1
新潟    1
長野    1
神奈川   1
合計    8

戦死者数   4名
戦病死者数  4名
合計     8名

第七師団第三野戦病院
北海道    2
秋田     1
岩手     1

戦病死者数  4名
合計     4名

第七師団第四野戦病院
北海道    3

戦病死者数  3名
合計     3名

第七師団野戦電信隊
北海道    3
東京     2

戦病死者数  5名
合計     5名

第七師団第四兵站司令部
北海道    1

戦病死者数  1名
合計     1名

第七師団野戦兵器廠
北海道    1

変死者数   1名
合計     1名

第七師団第一輜重監視隊
北海道    1

戦病死者数  1名
合計     1名

第七師団第二輜重監視隊
北海道    1

戦病死者数  1名
合計     1名

第七師団衛生予備員
北海道    2
新潟     1
福岡     1

戦病死者数  4名
合計     4名

第七師団衛生予備廠
新潟     1

戦病死者数  1名
合計     1名

後備歩兵第二十五連隊第一大隊
北海道   17
新潟     1
群馬     1
埼玉     1
福岡     1
合計    21名

戦死者数   7名
戦傷死者数  4名
戦病死者数  9名
変死者数   1名
合計    21名

後備歩兵第二十五連隊第二大隊
北海道    6
群馬     3
茨城     1
千葉     1
東京     1
神奈川    1
合計    13名

戦傷死者数  1名
戦病死者数 12名
合計    13名

後備歩兵第二十五連隊第三大隊
北海道   12
将校     1名
総合計   13名

戦死者数   1名
戦病死者数 12名
合計    13名

後備歩兵第二十八連隊第一大隊
北海道   18
長野     7
千葉     7
栃木     6
茨城     2
神奈川    2
山梨     2
山形     1
福島     1
埼玉     1
合計    47名

戦病死者数 47名
合計    47名

第二十五連隊補充隊
北海道    2
長野     2
宮城     2
栃木     1
群馬     1
山梨     1
合計     9名
将校     1名
総合計   10名

戦病死者数  9名
事故死者数  1名
合計    10名

第二十六連隊補充隊
北海道    3
千葉     2
埼玉     1
東京     1
合計     7名

戦病死者数  7名

第二十七連隊補充隊
埼玉     2
北海道    1
宮城     1
栃木     1
千葉     1
合計     6名

戦病死者数  6名

第二十八連隊補充隊
北海道    2
東京     2
栃木     2
茨城     2
合計     8名

戦病死者数  8名

騎兵第七連隊補充隊
長野     1

戦病死者数  1名

工兵第七大隊補充隊
山形     1
栃木     1
合計     2名

戦病死者数  2名

輜重兵第七大隊補充隊
北海道    2
新潟     1
合計     3名

戦病死者数  3名

清国山海關駐屯歩兵隊
岩手     1

戦病死者数  1名

第十五師団馬廠
北海道    1

戦病死者数  1名

歩兵第十五聯隊 No.2

 去年、軽井沢に出稼ぎに行った時、小諸の古本屋で買い求めた本を思い出し、開いてみる。

 「日露戦役 御旗之光 第一師団管健兒部隊實戰記」
  明治40年9月2日発行 大日本奉公會編輯部

 これに歩兵第十五連隊の記述もあったので旅順攻囲戦までの損害を書き写す。

金州南山(5月26日・27日)
 戦死   将校       1
      下士卒     37
 戦傷   将校       4
      下士卒    250
 戦死傷合計       292

双臺溝(5月28日) 
 戦死   下士卒      1
 戦傷   将校       3
      下士卒     44
 戦死傷合計        48

高崎山(8月13日・14日・15日)
 戦死   将校       5
      下士卒    177
 戦傷   将校・准士官  16
      下士卒    375
 戦死傷合計       561?(563)

第二回総攻撃 二〇三高地
 戦死   将校      15
      下士卒    114
 戦傷   将校      23
      下士卒    628
 行方不明 将校       1
      下士卒    124
(戦死傷行方不明合計)  885
(残存戦闘可能兵員 将校5下士卒86)

第三回総攻撃 白襷隊・二〇三高地・赤坂山
 戦死   将校       4
      下士卒     65
 戦傷   将校      17
      下士卒    335
 行方不明 下士卒    132
 戦死傷行方不明合計   553

歩兵第一連隊の記述に脚気に関する興味深い記述があったので書き写す。
これは旅順攻撃前の待機期間中の事である。

 7月30日泥河子占領後、我が連隊は各部署を定め防御工事を施し敵と対峙すること約半ヵ月、此地方飲料水は不足なかりしが燃料少き為生木を伐採し、或は民家を買収するの困難に遭遇し、又脚気下痢症患者の発生せる事夥しく、日々新患者各大隊に二十名内外旧患者五六十名を生じ、敵以外に大恐惶を来せり 

 第三軍が炊爨の為の燃料に不足していたことは、当時の写真を見れば想像がつく。それにより、やっと配給された生の肉、魚、野菜の調理を妨げ、さらに栄養を偏らせたのである。第三軍傘下の緒部隊が同じ状況に置かれているのであるから、その問題の大きさと共に書かざるを得なかった気持ちが理解できる。なお、自分が所有している本が第六版であり、当時としても多くの読者に脚気惨害の状況が日露戦争終了直後にも知らされていたのである。

    

歩兵第十五聯隊

 日露戦役に興味(特に陸軍)を持ち始め、あ~あ、自分も落ちるとこまで落ちていくのかという気持ちが強くなっている。ただ、今だその興味も旅順攻囲戦までで、実にコンパクトなものである。日露戦役で最も悪戦を重ねたと思われる、第一師団、第七師団と対比する為にも、歩兵第十五連隊の旅順攻囲戦終了後までの戦場別戦死傷者を書き写す。

金州南山
 戦死  43
 戦傷 210
 計  253

旅順前進陣地
 戦死   3
 戦傷  69
 計   72

高崎山
 戦死 155
 戦傷 388
 計  543

第一回総攻撃 寺児溝西北帯(一〇八高地)
 戦死  15
 戦傷  33
 計   48

第二回総攻撃 二〇三高地
 戦死傷 747

第二回総攻撃 松樹山堡塁
 戦死傷  12

第三回総攻撃
 戦死  268
 戦傷  404

 以後も降伏まで日時があるので戦死傷者もまだいるのではないかと思う。また、戦病についてはなにも記載がない。

日露戦役における出征以来における連隊の戦傷病死者は
 戦死  将校    40
     下士卒 1043
     計   1083

 戦病死 将校     1
     下士卒  134
     計    135

     総合計 1218

 「歩兵第十五聯隊史」
  昭和60年8月31日発行

振り上げた拳

 今日の読売新聞の中に次のような記述があった。

 精米によるビタミンB₁不足が最大の原因ですが、原因究明の過程における陸海軍の脚気論争は有名です。
 海軍は高木兼寛軍医総監が「食事の欠陥で起こる」とし、食事の改善で早期の制圧に成功しました。陸軍はこれを俗説として排除。時の陸軍軍医総監の森鷗外は「すべての病気は細菌によって起こる」とのドイツの見方をよりどころに東大医学部と一緒になって、細菌説に固執しました。
  12面 「時代の証言者 医の心 井形 昭弘」

 この内容には明らかな間違いがある。陸軍の脚気対策の失敗の元凶は森鷗外の2代前の軍医総監石黒忠悳であり、森鷗外(以後森林太郎とする)が軍医総監となったのは、日露戦役後の事であり、その時には「食事の欠陥で起こる」という事が認知されていたのである。(ただし、森林太郎はその事を公式には一切認めなかったが)陸軍の脚気対策の失敗についてことさら森林太郎に言及する事が多いが、本来は軍医総監石黒忠悳個人と東大医学部を綿密に調べる必要があるのだと思う。ただ、森林太郎の間接的にせよ受動的にせよ大きな責任があった事を否定する事は出来ない。

寄せ集めの第七師団 NO.4

 「忠魂録」より第七師団第二十七連隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。(なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。)

第二十七連隊
北海道 224
新潟  105
埼玉  104
神奈川 100
山梨   71
群馬   69
宮城   60
東京   57
千葉   49
福島   33
山形   19
長野   16
茨城    7
栃木    3
青森    1
岩手    1
静岡    1
三重    1
大阪    1
岡山    1
広島    1
合計  924名
将校   35名
特務曹長  7名
総合計 966名

戦死者数  806名
戦傷死者数 119名
戦病死者数  38名
変死      1名
不明      2名
合計    966名

寄せ集めの第七師団 NO.3

 「忠魂録」より第七師団第二十六連隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。(なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。)

第二十六連隊
北海道 288
千葉  171
東京  120
群馬  117
埼玉  104
長野   65
新潟   50
茨城   48
神奈川  25
山梨   19
栃木   12
福島   10
青森    7
宮城    3
岩手    2
山口    2
秋田    1
石川    1
兵庫    1
不明    1
合計 1047名
将校   34名
特務曹長  6名
総合計1087名

戦死者数  930名
戦傷死者数 114名
戦病死者数  43名
合計   1087名

近衛師団と脚気

 妻子から生きる上でどれほど無駄な趣味かと、痛罵される地獄のような日々を過ごしながらも、ちゃっかりハローワークの帰りに図書館に立ち寄ったりする。

 「近衛歩兵第一聯隊歴史」
  昭和六十一年十二月十日発行
そしてこんな本がしっかり書棚にあったりする。その中に「近衛歩兵第一聯隊歴史」という、連隊副官のもとで歴代の連隊旗手が連隊長の校閲を経て毛筆で書き綴ったものが復刻されていたものがあった。その中に日清戦争以前の脚気に関する記述があるのでここに書き写す。

一 十七年八月八日近衛諸隊ノ脚気患者ヲ合シ集成中隊ヲ編成シ転地療養ヲ兼ネ野営演習トシテ習志野原ヘ出張セシメラレ爾後快癒ノ者ハ漸次新患者ト交代セシム
一 十八年七月二十日ヨリ九月七日迄近衛諸隊ノ脚気患者ヲ合シ集成中隊ヲ編成シ転地療養ヲ兼ネ野営演習トシテ習志野原ヘ出張セシメラレ爾後快癒ノ者ハ漸次新患者ト交代セシム
一 十八年十一月ヨリ一ヶ年間脚気病予防トシテ兵食ヲ麦飯米七分麦三分ニ改ム
一 十九年五月二十九日当隊患者ノ状況等視察ノ為メ思召ヲ以テ侍従歩兵少佐岡田善長侍従試補騎兵中尉廣幡忠朝ヲ差遣ハサル
一 二十一年三月一日ヨリ脚気病予防ノ為メ兵食ヲ改メテ朝食並昼食ヲ麦飯米七分麦三分夕食ヲ麺包六十匁トス
一 二十一年十月二日ヨリ兵食ヲ改テ米食ニ復ス
一 二十二年四月一日ヨリ脚気病予防ノ為メ兵食ヲ麦飯米七分麦三分ニ改ム

明治  八年  患者2587 内脚気388
        死亡  28 内脚気 21  
明治  九年  患者 941 内脚気153
        死亡  10 内脚気  5  脚気除役  12
明治 十一年  患者2676 内脚気363
        死亡  24 内脚気 11    
明治 十二年  患者2496 内脚気256
        死亡  12 内脚気  3  脚気除役   8 
明治 十三年  患者2177 内脚気167
        死亡  11 内脚気  3
明治 十四年  患者2501 内脚気209
        死亡  13 内脚気  6
明治 十五年  患者2748 内脚気656
        死亡  45 内脚気 22  脚気除役   4 
明治 十六年  患者2410 内脚気816
        死亡  41 内脚気 33  脚気除役  12
明治 十七年  患者2214 内脚気751
        死亡  33 内脚気 25  脚気除役  15
明治 十八年  患者2052 内脚気345
        死亡  20 内脚気  9  脚気除役  22
明治 十九年  患者1194 内脚気  9
        死亡   9 内脚気  0  脚気除役   7
明治 二十年  患者1301 内脚気  3
        死亡   2 内脚気  0
明治二十一年  患者1301 内脚気  3
        死亡   0 内脚気  0
明治二十二年  患者1599 内脚気  1
        死亡   5 内脚気  0
明治二十三年  患者2138 内脚気  3
        死亡   4 内脚気  0
 以後脚気の記述が無くなる。

これは、日本の脚気の歴史研究の第一人者である山下政三氏の著作
「明治期における脚気の歴史」「鷗外森林太郎と脚気紛争」
にも引用されていないもので、麺包(パン)を試用した事などこれにより初めて知ったほどである。「鷗外森林太郎と脚気紛争」において陸軍の脚気対策の全容を掴んでいるかのような記述が見られるが、実際に部隊でどのような脚気対策を用い、それに対し部隊ではどのような感触を持っていたのか、それを垣間見る資料に著者は十分当たっているとは思えない。
日清戦役前、日清戦役中、日清戦役と日露戦役間、日露戦役中の部隊における脚気対策は、師団歴史や聯隊歴史等の陸軍の一次資料(防研の一次資料も)、さらには全国に散見される将兵の日記等(おそらく膨大な数があると思う)を精査しなければ、具体的な動きや考え方が浮かび上がってはこないのではなかろうか。これらを積み上げた後初めて、陸軍の脚気対策の失敗の全容も見えてくるのだと思う。

選り抜きの近衛師団

 偶々、図書館に行ったら下記の本が並んでいた。
「近衛歩兵第三聯隊史」近歩三史刊行委員会
  昭和63年3月23日発行
 何気なく開くと、日露戦争中の記述と共に、戦没者名簿が載っていた。この名簿には戦死者の名前と共に、階級、戦死場所、戦死日、本籍が記入されている。第七師団と違い、全国から選抜編成されたという近衛師団、どういう出身地構成を持っていたのか興味を生じ調べてみた。ただし、残念な事に死因が書かれていないので第七師団と完全に対比する事ができなかった。なお「日露戦争と群馬県民」(前澤哲也著)によれば、近衛師団第三連隊の群馬県出身戦死者は11名とあるので、この資料が完全であるとは、おそらく言えない。戦場での死がそこに存在する兵に平等に降りかかる事からも、近衛師団第三連隊を構成する将兵の出身地と戦死者の出身地も比例すると思いこれを調べる。
近衛師団第三連隊の日露戦役の曹長以下の死者における都道府県別出身構成は以下のとうりである。

栃木  251
長野  170
茨城   78
滋賀   33
愛知   17
島根   16
東京   11
新潟   10
静岡   10
埼玉    9
岐阜    8
兵庫    8
秋田    6
福岡    4
大阪    3
三重    3
岡山    3
宮崎    3
千葉    2
広島    2
佐賀    2
北海道   1
福島    1
群馬    1
山梨    1
石川     1
福井    1
京都    1
愛媛    1
熊本    1
合計  658名

将校   22名
特務曹長 10名
総合計 690名