<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><!-- generator="WordPress/2.5.1" -->
<rss version="0.92">
<channel>
	<title>帰ってきた真実日記</title>
	<link>http://stanza-citta.com/bun</link>
	<description>時給7フラン</description>
	<lastBuildDate>Wed, 20 Aug 2008 05:24:44 +0000</lastBuildDate>
	<docs>http://backend.userland.com/rss092</docs>
	<language>ja</language>
	
	<item>
		<title>空の要塞否定論　２</title>
		<description>　アメリカ陸軍航空隊は長距離重爆撃機を開発する根拠として「四発爆撃機は洋上はるかに敵艦船を攻撃できるので沿岸防衛にも海外拠点の防衛にも最適な兵器である」と主張したことは前回に紹介した通りです。航空隊が長距離洋上攻撃能力を売り込んだために「B-17は艦船攻撃のために開発された」と解説されることもある程です。
　長距離重爆撃機は敵国中枢を破壊するための兵器であることはどこの空軍でも同じですから、陸軍航空隊の主張は100％ の信念をもって語られたものではありません。B-17の発注取消しで揺れる1936年に航続距離8000マイル、時速230マイルのXB-19の開発が開始されていますが、このスペックは艦船攻撃用と主張してもおそらく誰も信じない明らかな大陸間爆撃機計画で、当然のことながら「こんな大陸間爆撃機は攻撃兵器ではないか」と批判されています。

　モンロードクトリンに基づくアメリカの国防政策は大陸間爆撃機のような攻撃的兵器を表向きに認めることができません。そのために「顕教」としての洋上攻撃の主張があり、その陰で誰もが知っていても口に出さない「密教」として戦略爆撃論があるという複雑な状況が1930年代末まで続いていたのです。

　そしてさらに面倒臭いことに「洋上攻撃」というセールストークは陸海軍の両者から相手にされません。陸軍は地上軍を放り出して何をするのか、と苛立ち、海軍は「洋上攻撃」が海軍の領域を侵すと警戒します。誰ひとりB-17を艦船攻撃機として期待していなかっということです。

　そんな訳で「洋上攻撃」を認めるか否かについては陸海軍ともに利害が一致していましたから、陸海軍と陸軍航空隊という対立構図が生まれ、利害を同じくする陸海軍間には非公式の協定が結ばれます。それは陸軍航空隊の活動領域は沿岸100マイル以内とし、100マイル以遠の洋上は海軍航空隊の哨戒機が担当するという内容でした。

　1938年1月にはそれまで陸軍に振り向けられていた沿岸防衛の役割を海軍に引き渡す動きが始まり、海軍はそれまで国内6ヵ所に限られていた陸上航空機基地の拡充と大量の哨戒機の要求を行います。これによって海軍の予算と権限が増大し、一方では陸軍の権限が縮小されるような印象がありますが、現実には沿岸100マイル協定と沿岸防衛の移譲によって陸軍重爆撃機が地上軍の上空へ帰って来るのですから陸軍の利益も大きかったのです。

　沿岸100マイル協定とは単なる政治的な協定ではなく、陸軍機が沿岸100マイル以遠を許可なく飛行することを禁止するものでしたから陸軍航空隊に深刻な影響を及ぼしています。事実上、洋上航法訓練が実施できなくなったことで航空隊の錬度が急速に低下するという事態が発生します。洋上航法訓練が停止するという長距離爆撃機にとって最大の逆風となった沿岸100マイル協定でしたが、この協定は第二次世界大戦の開戦直前にあたる1939年8月24日まで厳格に守られています。

　そして長距離重爆撃機にとってもう一つの逆風としてスペイン内戦の情報とその評価があります。スペイン内戦は政治的な宣伝に利用された「ゲルニカ無差別爆撃」の印象とは全く異なって、航空部隊の地上支援について模範となるような戦闘がいくつかあり、中型、小型爆撃機の活躍が注目を集めた戦争です。現地で観戦していた各国の武官達は本国に航空支援の戦例を報告していますが、アメリカ陸軍にとってスペインからの報告は長距離重爆撃機否定論として働き、「空軍の独立運用より地上軍支援が重要」「高高度爆撃は効果が無い」「『空の要塞』コンセプトはスペインで死んだ」といった調子で長距離重爆無用論が沸き起こってしまいます。

　そんな逆風の吹き荒れる中で1938年5月には開発以来すでに4年も経過してしまったB-17に代わる航続距離4000マイルの爆撃機要求が陸軍省に提出されますが、この要求はすぐさま強力な否定論に阻まれてしまいます。

・国防方針はそのような攻撃的兵器を必要としない
・沿岸から離れた洋上作戦は海軍の管轄
・B-17を1機購入する費用で哨戒艇なら2、3隻が購入できる
・パナマ、ハワイの防衛にもB-17以上の爆撃機は不要
・B-17を67機購入する費用で攻撃機300機を購入できる

　
　こんな否定論ばかりの環境で、我らが「空の要塞」達はどうなってしまうのでしょう。
　それは次回のお楽しみです。

 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/20/116</link>
			</item>
	<item>
		<title>空の要塞否定論　１</title>
		<description>　「空の要塞」B-17はアメリカ陸軍航空隊初の高性能長距離爆撃機として第二次世界大戦を通じて活躍した名爆撃機です。けれどもB-17は順風満帆とは程遠い逆風の中で育った、アメリカ爆撃機の中で一番の苦労人でもあります。同じ陸軍内に推進派もあれば反対派もあるというB-17の導入経緯は陸軍に属する航空部隊が長距離爆撃機を持つということがどういうことなのかを知る良い手掛りになるはずです。
　1934年度の競争試作で残されたXB-17とXB-18にはそれぞれ推進派と反対派があります。高性能であるけれども高価な四発爆撃機を強く押していたのは陸軍航空隊の主流ともいえる独立空軍志向の将校達で、旅客機ベースの双発爆撃機というあまり夢の無い機体である代りに安価なXB-18を支持したのは主に航空隊の外にいた陸軍省内の将官達でした。

　長距離爆撃機を航空隊が装備するということは当時のアメリカが想定していた国防方針に沿って考える限り、陸軍の主力である地上軍がいる米本土を離れて洋上で航空隊が独自に戦うということを意味します。一方、中型爆撃機を装備すれば航空隊が地上軍の支援という陸軍航空隊の最も基本的な任務に専念することを意味します。沿岸防衛においても遠く洋上で敵艦隊を邀撃するのではなく、上陸地点近辺での艦船攻撃に限られるからです。機体が高価であるか安価であるかも大きな問題でしたが、陸軍航空隊の爆撃隊にとってドクトリン上の問題が両者のどちらを主力とするかで生じてしまうのです。

　四発爆撃機推進派は当時の陸軍が沿岸防衛を担っていたことを利用して、長距離爆撃が可能な四発爆撃機は洋上遥かに敵を撃滅できる最も合理的な兵器であると主張します。開発段階から試作機による実験段階まで、四発爆撃機推進派は一貫して洋上攻撃能力の優越を主張し、演習でもその成果を際立たせるべく努力を続けます。XB-15のような長距離爆撃機の試作に対してアメリカの持つ海外拠点の防衛に関心を抱くマッカーサー等からの支持が得られたのはこうしたアピールの結果です。

　1934年の試作開始から順調に完成したXB-17の1号機は優秀な成績を収めて1935年度に65機の発注が内定しますが、試験中の事故で機体が失われたために発注が再検討され、1935年度には65機のB-17ではなく133機のB-18が発注されてしまいます。そして1936年度にYB-17として実用試験目的で13機の発注が行われ、1937年度、1938年度に発注される予定だった2個グループ分のB-17発注は撤回され、B-18に置き換えられます。かろうじて発注された13機のYB-17は1937年8月までに全機納入され、1937年度の演習に参加することになります。

　陸軍航空隊がB-17の発注復活を目指して臨んだ1937年度陸海軍合同演習でYB-17はカリフォルニア沖385マイルもの距離での艦船攻撃に成功して沿岸防衛用の爆撃機としての適性を示したことで、「陸上の機動戦に対応するにはB-18が適当」とする陸軍省から1938年度に26機、1939年度に13機のB-17Bの発注が復活します。何とも危うい展開ですがB-17に対する対立はこれで収まった訳ではなく、まだまだ続きます。

　B-17がB-18に比べて遥かに高価だったのはまったくの事実でしたから、B-17否定論の第一の根拠は高額の調達費への疑問となります。これに対して四発爆撃機推進派は「搭載爆弾のトン数あたりの価格はB-18より安い」「偵察任務における偵察可能面積あたりの価格もB-18より安価」と反論します。

　しかしここで面白い点は、だからといってB-17を大量配備せよという主張が行われた訳ではないことです。彼らの主張とは四発爆撃機はB-17の実績が示す通り極めて有効な兵器であるから「本格的四発長距離爆撃機の機体の試作と大馬力発動機の研究開発を継続せよ」というもので、1936年度にプロジェクトＤとして試作開始されたXB-19クラスの「本物の長距離重爆の研究開発を中止するな」と言っているのです。四発爆撃機推進派にとってB-17という爆撃機が妥協的、中間的な爆撃機として認識されていたことを示す主張です。陸軍航空隊が本当に欲していたのはXB-19クラスの超重爆なのです。

　陸軍省内でのB-17否定論はまだまだ続きます。

 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/19/115</link>
			</item>
	<item>
		<title>空の要塞が飛び立つまで　２</title>
		<description>　アメリカ陸軍航空隊が軍備拡張五ヵ年計画を進めた1930年前後の時代は軍拡には最も厳しい時代でした。しかもアメリカは世界恐慌の震源地でしたからその影響を大きく受けています。計画の遅れだけではなく、1933年にとりあえず終結した際にも1800機の第一線機は確保できず、戦闘機21飛行隊、偵察機13飛行隊、爆撃機12飛行隊、攻撃機4飛行隊の合計1619機にしか達していません。しかもそのうち約27％を占める442機は既に戦力とは言い難い旧式機と非制式機で構成されています。

　機材更新の停滞は陸軍航空隊が想定する対日、対英戦の枠組みの中でもまったく兵力不足でしたから航空軍備の拡充要求は続けられましたが、陸軍省は五ヵ年計画の1800機を上限として譲りません。旧式機、非制式機を除けば1800機とは5割の拡充を意味していますから陸軍省としてもそこがギリギリのラインだったとも言えます。しかし陸軍航空隊としても対日、対英戦に備えてパナマ、フィリピン、ハワイ諸島の防衛を掲げた以上、それを実施できる大型爆撃機の試作要求を引っ込める訳には行きません。

　そんな苦境の中で1932年7月、陸軍航空隊の大型爆撃機試作要求を航空隊の外で支持する大物が現れます。それはマッカーサーです。大型爆撃機が海外拠点の防衛に重要であるとの陸軍航空隊の主張に自らの主張と重なるものを見たマッカーサーの支持を得て、1933年11月、長距離爆撃機の試作研究が開始されます。

　「プロジェクトＡ」と呼ばれたその計画は時速200マイル、航続距離5000マイル、爆弾搭載量2000ポンドの大型爆撃機を製作するというもので、陸軍航空隊の本来の任務である沿岸の防衛だけでなく、明確に海外拠点の防衛を意識した計画でした。この計画でボーイング案が採用され、アメリカ四発重爆の元祖といえるXB-15が完成します。

　5000マイルの航続距離を持ち、2000ポンドの爆弾を搭載して200マイルで飛行できる巨大な四発重爆というものは当時としてはかなり野心的な計画です。その巨大さも実験作ゆえのことかと思えてしまいますが、実際にはこれこそがアメリカ陸軍航空隊が望んだ重爆撃機の本来の性能であり大きさなのです。けれども完成した試作機は馬力不足から予定の飛行性能に達しないため実用化は見送られますが、XB-15の審査が続く中で長距離重爆計画が息つく間もなく再興されます。それがXB-19です。

　XB-15の試作開始に1年ほど遅れて、より小型で航続距離2000マイル、時速250マイルの爆撃機の競争試作が行われます。ダグラス案の旅客機ベースとしたDB-1（XB-18）とマーチンB-10の改造型がそれぞれ双発機として比較検討されたほか、ボーイングも四発機としてモデル299を提出します。これがXB-17となり「空の要塞」と呼ばれる主力爆撃機へと成長します。

　XB-17の試作はXB-15と重なっていますから、XB-15の失敗を受けてXB-17が改良型として試作された訳ではなく、また、実験作XB-15の長所を採り入れて造られた実用機という訳でもありません。1936年頃の陸軍航空隊は大型長距離爆撃機と中距離爆撃機という別の機種でそれぞれ有望だった両者に対して大いに期待しているのです。XB-15への期待とXB-17、YB-17の好評はアメリカ陸軍航空隊内でのドーウェ主義者を大いに勢いづかせるものでした。

　また、面白いことに1934年の爆撃機競争試作と同時にこれら中距離爆撃機を掩護する戦闘機の研究も命じられています。その内容はB-10をベースにした複座戦闘機です。このような武装強化型の爆撃機を護衛戦闘機として機能させようという発想は日本だけではなく、アメリカにも存在したということですが、爆撃機と同等の航続距離、25％以上高速で上昇力、上昇限度に優れる機体を爆撃機ベースで実現できる見通しは立たず、結果的に爆撃機の自衛力を強化するという穏便な方向に納まります。

　これは1934年度計画の爆撃機は護衛戦闘機の必要性を感じさせる程度の計画だったということでもあります。戦闘機無用論に力があった時代に、護衛が必要と考えられた中距離爆撃機の中で最も脆弱なものがXB-18で、最も強力なものがXB-17だったということです。とても「空の要塞」と名乗れたものではありません。長距離重爆の理想はもっとハイスペックな巨人機にこそあったのです。理想を切り縮めて現実と折り合いをつけたB-17のような飛行機には、有無を言わせぬ革命的高性能も無ければお手軽爆撃機であるB-18のような経済性もありません。

　まったく、これからの苦労が思い遣られます。 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/18/114</link>
			</item>
	<item>
		<title>空の要塞が飛び立つまで</title>
		<description>　第二次世界大戦中にドイツに対して実施された戦略爆撃がアメリカ軍による昼間精密爆撃とイギリス軍による無差別夜間爆撃とに綺麗に役割分担されていたことでアメリカでは早くから昼間精密爆撃による戦略爆撃思想が発達していたかのように思われています。

　ところが毎度のことながら現実は一筋縄では行かないもので、空軍独立論者のミッチェルを生んだアメリカ陸軍航空隊はまっすぐな道を歩んでB-17爆撃機を手にした訳ではなく、しかも彼らは戦略爆撃論者にして空軍独立論者のミッチェルの信奉者とも言い切れない、というクドい話を始めようと思います。御用と御急ぎでない方は御付き合いください。

　第一次世界大戦後、アメリカ陸軍航空隊が初めて中期スパンでの軍備拡充計画を立案したのは1926年に検討され始めた5ヵ年計画からです。この時にアメリカ空軍は1650人の空軍将校、15000人の下士官、1800機の航空機という大枠を目標として新たな軍備を開始します。けれどもこの計画は陸軍内ではあまり評判の良いものではなく、陸軍内の他の部門にとって航空隊は地上軍の予算を食い潰す厄介な存在でした。予算上の問題は航空隊にとって最も大きな障壁で5ヵ年計画は主にその理由で停滞してしまいます。

　この計画当初、航空隊が陸軍省に対して要求していたのは「昼間爆撃用の軽爆撃機」と「夜間爆撃用の大型爆撃機」でした。昼間爆撃は損害が見込まれるので大型爆撃機による攻撃は夜間に行われるという想定だったのです。主力は夜間、ということです。1920年代のアメリカ陸軍航空隊の爆撃に関する考え方はこのようなもので「昼間精密爆撃」とは縁遠いものでした。

　しかしこの要求は1928年に陸軍省から正式に拒絶されてしまいます。陸軍省としては航空隊に必要なものは大型夜間爆撃機ではなく双発偵察機とその派生型としての爆撃機であるという判断です。陸戦の支援には偵察機が重要で、その次に軽爆撃機があればよいという陸戦主体の発想としては当然で、予算も無ければ差し迫った国防上の問題も無いのに夜間爆撃用の大型爆撃機を開発する理由が無いという決定は覆りません。

　さらに航空隊内部でも航空隊戦術学校も1930年に夜間爆撃は爆撃が不正確で不十分な結果に終わるとして否定的な見解を示します。「爆撃機は軽爆、重爆ともに昼間爆撃機とすべきであって、優秀な爆撃機さえ開発できれば速度と武装によって戦闘機を寄せ付けずに任務を遂行できる」というものです。こうした発想の下で開発された爆撃機がB-9とB-10です。第二次世界大戦中のアメリカ爆撃機を見慣れていると旧式な姿に惑わされてしまいますが、これらは戦闘機に優越する爆撃機として開発された最初のアメリカ爆撃機にあたります。

　この時代にこうした爆撃機優越論、または戦闘機無用論が現れるところには必ずイタリアの空軍万能論者ドーウェの影があります。アメリカにはミッチェルがいるではないか、と思ってしまいますが、ミッチェルは騒動の種はたくさん蒔いていましたが陸軍航空隊のドクトリン策定に対しての影響力はその名前ほどではありません。

　1920年代の陸軍航空隊は制空権というものは戦闘機の大量投入によって獲得されるものだとしています。これが1930年4月の航空隊戦術学校の教範「The　Air　Force」では爆撃機編隊はその速度と火力によって戦闘機の護衛無しで任務を達成でき、戦闘機の力を借りる必要があるのは爆撃機編隊が前線を突破する際に敵戦闘機の邀撃を排除する場合だけで、それ以後の敵国深部への侵攻は爆撃機編隊独力で実施できると主張されています。

　こうした爆撃機優位論はミッチェルではなく間違いなくドーウェの影響でした。ドーウェの著作がアメリカ陸軍航空隊内で注目され始めたのは1920年代末からで、1930年には著作が航空隊戦術学校の図書館に収められ、ドーウェに関する論文や翻訳も次々に行われるようになります。

　爆撃機優越論はドーウェの主張する「巡洋戦艦」としての爆撃機に由来するもので戦闘機よりも爆撃機を重視し、戦闘機による空中戦による制空よりも、敵飛行場を攻撃することで敵空軍の行動能力を奪う航空撃滅戦によって制空権を獲得するのがドーウェ流の考え方です。アメリカ陸軍航空隊が航空撃滅戦の概念をテキストに加えるのはドーウェ思想導入以後、1931年2月の「The　Air　Force」改正からで、「敵機は空中で、飛行場で、補給廠で、そして工場で破壊する。」とのドーウェ的な表現が印象的です。

　しかし、ドーウェの影響下で航空撃滅戦に目覚めた陸軍航空隊はいったいどんな戦争に備えて爆撃機開発をしていたのでしょう。アメリカは地理的に孤立していますし、ドイツ空軍の復活はまだ先のことです。日本から爆撃機が飛んで来る訳がありませんし、メキシコと本格的な航空戦が戦われるとは到底思えません。

　そこで想定されたのは当時のアメリカにとって考え得る最悪のシナリオとして「イギリスと日本が連合してアメリカと敵対し、その空母部隊を使って北米大陸の北西、北東に上陸作戦を含む攻撃を仕掛けてくる」というものです。当時としては、そんなことはあり得るのか？という疑問よりも、他にどんなシナリオが考え得るのか？ということの方が問題だったようです。そして大陸沿岸の防衛は陸軍航空隊の任務でもありました。陸軍爆撃隊の第一の敵は空母だったのです。 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/18/113</link>
			</item>
	<item>
		<title>歩兵支援を任務に加える独軍戦車部隊</title>
		<description>　1942年の東部戦線を通じて一番変わったものを挙げるならば、それは戦車と歩兵の関係になるはずです。ドイツ陸軍は戦車を決勝兵器としてきわめて特別視しています。そのために一般歩兵部隊の支援に戦車を投入することは戦争前半ではまず例外的で、戦車部隊とは戦車をできる限り集中させることでその機動力と衝撃力を最大限に活用し、突破作戦を成功に導く存在でした。

　そのための理論構築と教育が徹底されていたのでドイツ戦車部隊はまさにエリート部隊としての意識を持っていましたから歩兵部隊への分派、従属は彼らにとってまったく不本意かつ無駄な任務と考えられています。中でも歩兵部隊の指揮官に対する不信は大きく、「歩兵指揮官＝戦車戦術を理解しない指揮官」という認識が一般的です。

　しかし1941年の冬季戦では消耗しきった戦車部隊の残滓のような小部隊がほころびかけた前線の火消し役として活躍しましたし、恵まれた環境にある歩兵部隊では突撃砲という戦車ではない戦車の支援も受けることができ、防御戦に装甲戦闘車輛を用いることの有利さが認識され始めます。特に東部戦線の防御戦は異様に手強いソ連軍戦車の突破をまともに受けて立たねばなりませんから「戦車」があるのと無いのとでは戦闘の経過も結果もそして歩兵部隊の損害も大きく異なったからです。

　1942年の戦いについての前線部隊の報告には防御陣地に配置された歩兵師団に少なくとも1個大隊、最低限1個中隊であっても戦車を配備して欲しいとの要求が多くあります。これは前線で戦い続けた歩兵指揮官達にとって、敵の突破が発生したときの最も有効な対処策として「出来る限り早期の逆襲」が重視されていました。それは敵がドイツ軍のか細い連続式防御線を突破した場合、逆襲の効果は兵力の大小よりも逆襲をどれだけ早期に実施できるかが勝敗の鍵を握っていたからです。突破対策は時間との戦いだったのです。

　突破が成功した後、ソ連軍はただちに突破口の拡大を目指して活動し始めますし、ドイツ軍の逆襲に備えて陣地構築を開始します。突破が発生した前線から遠く離れて配置されている戦車師団が反撃に駆けつけたのではソ連軍の突破口強化と拡大に間に合わず、逆襲は大きな損害を伴うことになります。ドイツ軍にとってそれは最も貴重な歩兵戦力を消耗するという苦しい戦いです。それを避けるためにはたとえ少数ではあっても即時逆襲に投入できる戦車兵力が必要と考えられ、歩兵師団への補強部隊として戦車の派遣が要求されています。

　ソ連軍の突破作戦準備を察知することは容易と考えられていました。そのために理想的な措置として緊急度の高まった地区に増派する反撃用師団を用意することも考えられていましたが、常に兵力不足に悩むドイツ軍にとっては実現の望みが無い対応でした。そのために戦車部隊をより早く突破口へと投入できるシステムを前線の歩兵指揮官達は望んだのです。

　このように歩兵師団からの要求は切実なものがありましたが、戦車師団の指揮官達から見た場合、歩兵支援要求はどうにも受け入れられないものでした。なぜならば戦車は集中投入してこそ戦力を発揮できるものという原則が叩き込まれていたこと以上に、歩兵の支援要求を一旦受け入れた場合、歩兵指揮官の下で戦車が必要以上に酷使され、消耗してしまうという大きな心配があり、そのような形で戦闘が続けられた場合に機動戦用の戦略予備であるはずの戦車師団の独立性が失われてしまうとの危惧がありました。

「歩兵に戦車を任せると戦車を知らない指揮官が戦車を浪費してしまう。」
「歩兵の前線に置かれた戦車兵は歩兵達より危険で死傷率が高い。」
「戦車の派遣は歩兵部隊に依存心を抱かせ攻撃精神を鈍らせる。」
「戦車の指揮を委ねるならば明確な期限が必要。」
「歩兵部隊に派遣するよりも、戦車部隊に歩兵、砲兵、突撃砲を派遣して戦闘力を高めるほうが合理的である。」

　戦車部隊の指揮官達の認識はこのように歩兵部隊に対して冷淡なものが多く、同じ装甲戦闘車輛である突撃砲部隊とは大きな違いがあります。歩兵が突撃砲に対して抱く感情と戦車部隊に対してのそれとは大きく異なったと言われていますが、さもありなん、と思わせるものがあります。

　確かにドイツ軍にとって常時不足している歩兵戦力の損害減少は最重要課題でしたが、だからといって戦車が余っていた訳ではありません。戦車の不足もまた深刻な問題でしたから戦車師団が自ら戦車の派遣に積極的になるはずがありません。そのために歩兵対戦車の論争はなかなか決着がつきません。けれども1943年を迎えると多くの戦訓からやはり戦車部隊を危機の迫る地区に分派することが真剣に検討され、そのマニュアル化が進められます。そして1943年2月に戦車学校が編纂した歩兵支援のための教本が配布され、戦車部隊の指揮官達を驚かせることになります。

1943年２月「防御線における戦車と歩兵間の協同に関する教本」
・戦車は反撃戦に用いるべきものである。固定した防御戦闘に用いてはならない。
・戦車は防衛すべき正面すべてにおける敵の突破に対応できるよう、最前線から十分に距離をおいて配置されなければない。
・戦車は常に集団で用いるべきものである。個々の戦車を孤立して投入することを禁ずる。
・戦車を反撃戦において歩兵支援のために投入する場合の最低単位は１個大隊（最低50輌）である。

　この歩兵支援教本が配布されると同時に戦車師団からの戦車部隊抽出が頻繁に実施されるようになります。東部戦線で戦車部隊を抽出されて戦車戦力がゼロになった戦車師団が見られるようになるのは、このようなドクトリンの転換が行われたからです。
　本来は攻撃兵器であるはずの突撃砲が防御戦闘で対戦車兵器として活躍するのも、弱体な歩兵師団に本隊を遠く離れた戦車が随伴していたりする理由もここにあります。

　アメリカの歩兵師団が正規の編制の中に戦車大隊を持っていたことで、アメリカ軍は戦車を歩兵支援兵器と考える旧態依然の思考に囚われていたとする評価がありますが、ドイツ軍は1943年になってからようやくその戦術を限定的に採り入れます。1943年2月に訪れた変化はドイツ軍における歩戦協同戦術が各国に追いつき始めたことを示しているとも言えるようです。

 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/11/112</link>
			</item>
	<item>
		<title>退化した防御ドクトリン</title>
		<description>　ドイツ陸軍の防御ドクトリンの変遷を追っているはずなのですが、これがどうにも解りづらいもので、よく伝わらないのではないかと心配しています。ヒトラー自身もドイツ陸軍に命じた防御ドクトリンがどのような物だったかをよく覚えていない傾向があり、拠点防御を禁じ、弾性防御も骨抜きにして連続線式の防御戦を命じておきながら1942年の冬季戦を控えて「特に各ストロングポイントは最後まで守り抜かねばならない！」と演説して前線指揮官達を困惑させるなどかなりいい加減な部分が見られます。

　そして世間からは軍事的才能の集団と思われているドイツ陸軍の高級将校達もヒトラーに対して主張できたのは既に実施不能に陥っていた弾性防御方式だけですから、ヒトラーを笑えません。ヒトラーの時代錯誤のドクトリン強要と死守命令が無ければドイツ陸軍中央は東部戦線で実施不可能な弾性防御を指導して史実より早い時期に壊滅したかもしれません。または、ドイツ陸軍がどのように戦おうと東部戦線の行く末は独ソ航空戦の結果が全てを決定していたので戦局は大して変わらないと考えてもいいでしょう。

1941年冬の経験がありながら、1942年の冬季戦には顕著な進歩は見られません。戦術的には弾性防御から連続線式の防御へと移行したこと、兵員の質が低下したことなどで、かえって退化したと評するのが本当でしょう。けれども細かく見れば1941年の冬とはいくつかの相違点が見られます。

第一に冬季装備の充実です。モスクワ戦では輸送が間に合わなかった冬季装備が1942年冬には既に準備されていました。この冬季装備があったお蔭で1941年冬の拠点防御方式ではなく、ヒトラーが強要する連続線式の防御線を展開できたのです。二度目の冬にはドイツ陸軍は冬季の野戦を戦えたということです。

第二に連続線式の防御戦を成功させるには反撃用の予備兵力が絶対に必要ですが、絶望的に不足していたのは事実であってもそれぞれの戦線には即時反撃可能な兵力がたとえ1個スキー中隊であっても用意されていたという点も大きな違いです。

第三にヒトラーが強要した連続線方式の陣地構築作業には前線部隊だけではなくロシアの民間人の動員など軍の組織外からの労働力が大量に導入されたことも大きな相違点です。土木作業が部隊の戦闘能力や技量、士気を低下させることを防ぐ意味からもこれは重要な変化でした。

　第四に対戦車兵器の進歩です。1942年の半ばにはドイツ戦車に長砲身の戦車砲が搭載され始めます。T-34に対抗できる戦車が登場した意味は大きく、対戦車砲も口径と初速が増大しています。ソ連軍の機動突破作戦に立ち向かうドイツ軍の薄い連続線式防御陣地にはまたとない援軍です。

　このような違いはありますが、全般的に見て1942年の冬季戦は根本的な変化の無いものでした。1943年に入ってハリコフをめぐる攻防でマンシュタインが指揮してみせた機動戦の見本のような反撃作戦もありましたが、だからといって戦術の革新がなされた訳ではありません。ドイツ陸軍は以前からそのように機動戦を戦うことができる軍隊だったからです。

　中部、北部の戦線で現実に戦われた多くの防御戦闘は既存の拠点をつなぐ細々とした塹壕にまばらに配置された歩兵によって戦われ、敵の突破に対しては最低限の予備隊ができるだけ早期に逆襲するというパターンが繰り返されています。敵の突破行動を粉砕する役割の大半は砲兵火力の集中と航空阻止攻撃以外にはなく、冬季戦の前に懸念されていたデミヤンスク付近の突出部やルジェフ付近の突出部は失われてしまいます。

　ただ最終的な戦線崩壊を免れた理由としてはヒトラーの死守命令によって築かれた前年冬よりは少し程度の良い陣地と冬季装備の充実、砲の威力を強化した突撃砲の有効活用があったことと、前年冬のソ連軍攻勢最盛期には消耗と厳寒によって事実上、活動が停止してしまったドイツ空軍が冬季も比較的活発に活動できたことが挙げられます。

　陰鬱な1942年冬季戦でしたが、ただ少しだけ何かの兆しのようなものが見え始めます。それは歩兵部隊と戦車部隊の関係が段々と変わり始めたことです。 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/11/111</link>
			</item>
	<item>
		<title>ヒトラーと陸軍のドクトリン対立</title>
		<description>　いままでドイツ陸軍の防御ドクトリンについて第一次世界大戦以来のドクトリンが受け継がれて来たことと、東部戦線最初の冬にそれが破綻したこと、それでも旧ドクトリンが廃されなかったことを紹介しましたが、前線の部隊と陸軍中央の対立の他にもうひとつの大きなドクトリン対立があります。それはヒトラーと陸軍の対立です。

　ドイツ軍の防御ドクトリンに関しては次のような流れがあります。

１． 第一次世界大戦前半までの単純な塹壕線方式
２． 損害減少を目的とした1916年末以降の「弾性防御」方式
３． 第二次世界大戦でも基本的に「弾性防御」を継承
４． モスクワ前面での「弾性防御」破綻
５． ヒトラーの死守命令と厳寒、兵力不足から拠点防御に移行
６． 1942年春の検証で陸軍は「弾性防御」を依然として堅持
７． 守勢戦線では兵員不足から「弾性防御」の実施困難

　ドイツ陸軍の兵員不足は深刻でしたが、それに輪をかけたのが予想外に強力なソ連戦車でした。もともと「弾性防御」は歩兵の攻撃を吸収撃退するためのシステムでしたから、戦車に対しては火力の集中によって歩兵を分離させた後、孤立した戦車を対戦車砲や近接攻撃で撃破する想定でしたが、T-34にせよKV-1にせよ、対戦車砲弾を受けつけない装甲を持っています。そのために敵の攻撃に1輌でも戦車が随伴していると防御戦闘はとんでもない犠牲を払うことになり、対戦車戦闘は「弾性防御」にとっても「拠点防御」にとっても大きな課題になっています。

　苦労して歩戦分離して孤立させたソ連戦車がバトルゾーンとして用意された主陣地での攻撃を撥ね退けて後方地帯まで突破してしまうことや、集落を取り囲んで設けられる全周陣地では対戦車砲を各方向に指向することが難しく、ソ連戦車は全周陣地から距離をとって周回しつつ防御の弱い方向から突入して来ることなど、有力な対戦車砲が88ミリ高射砲程度しか無いために発生する困難な事態に立ち向かうには近接攻撃しかなく、ドイツ軍が最も避けたい歩兵の大損害を覚悟しなければなりません。

　さらに都合の悪いことにはソ連軍はドイツ軍の防御線が兵力不足で十分な縦深をもって兵力を配置できず、前哨線や後方地帯は無人である場合もあり、主陣地であっても夜間などは百メートルにつき1人か2人しか配置されない場合があることや、集落や森の周囲に築かれる各拠点防御陣地には大きな間隙があって突破浸透が容易であることなどをよく分析してマニュアル化し始めます。強力な戦車に悩んでいる上に敵に内情を分析されていては防御戦闘がうまく行く訳がなく、1942年の中央軍集団、北方軍集団の防御戦は苦戦の連続となっています。

　ドクトリンの更新は拒絶され、かといって縦深と火力、小戦闘グループによる陣地内機動からなる弾性崩御を実施できるだけの兵員の量と質は絶望的という状況で、実質的に1916年以前の単純な塹壕線による防御しか実施できず、頼みの綱は砲兵火力のみという状態だった中央軍集団と北方軍集団の歩兵師団群でしたが、ここにまた強力な介入が行われます。それはヒトラーからのものでした。

　1942年9月8日、ヒトラーから防御戦に関する命令が出されたことでドイツ陸軍そのものが動揺します。それは「弾性防御」に伴う戦術的後退も禁じたためで、戦線を整理するという「弾性防御」実施の基盤となる動きも禁じられ、ミクロな部分では「弾性防御」による縦深陣地内での後退を含む機動も禁じられてしまいます。こうした極端な命令によってドイツ陸軍が第一次世界大戦以来、ずっと信奉して来た「弾性防御」ドクトリンが始めて大きく揺らぐことになります。

　ヒトラーが命じたのは自身が第一次世界大戦中に経験した1916年の塹壕戦の如く、敵の攻撃を第一線の塹壕前で火力集中によって粉砕することを理想としたもので、いわば「弾性防御」以前の防御方式に先祖がえりしたものです。かつてその戦術で大きな損害を出したために「弾性防御」を採用したのだとするドイツ陸軍中央にとって、この命令ほど理不尽なものはありません。

　それでも総統命令は絶対的なものでしたからさしものドイツ陸軍もこれを否定することができません。けれども消極的な反抗は行われています。塹壕線を強化するために膨大な量の有刺鉄線や対戦車地雷、対人地雷の要求を出した部隊もあり、これらが供給されるはずも無い量の機材が供給されないために命令が十分に実行できないというものです。

　ここで重要なのは防御ドクトリンをめぐるヒトラーとドイツ陸軍との対立は、新思想と旧思想の対立という訳ではなく、どちらも旧式な第一次世界大戦中の防御方式を主張していたことで、そこには革新的なものは何ひとつありません。あえてたとえるなら前大戦で一兵士だった独裁者の抱いた印象と、それを理論的、歴史的に理解していた将校達との認識の差が生んだ軋轢というべきものかもしれません。

　というわけで、南部戦線でドイツ軍最後の電撃作戦が戦われていた一方、中部、北部の戦線では総統の唱える勘違いと自己流解釈による塹壕線方式への賛美と、陸軍が固執する、もはや戦況が実施を許さなくなっていたことを棚に上げた教条主義的な旧式ドクトリンがぶつかり合っていたということで、ただでさえ重苦しい東部戦線の物語を一層陰鬱にさせる展開でもあります。 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/08/110</link>
			</item>
	<item>
		<title>二極分化した東部戦線独軍師団</title>
		<description>　1942年の夏季攻勢「ブラウ作戦」はスターリングラード戦につながる大きな戦いとなりますが、南部で大攻勢が行われている間、ずっと守勢を取り続けていた中央軍集団、北方軍集団はどうなっていたのでしょう。防御ドクトリンの変遷を追う以上、これを無視する訳には行きませんから、ボルガ河流域から遠く離れた中部、北部の戦線で何が行われていたかを調べてみます。

　12月8日に東部戦線での守勢が命じられた翌月、東部戦線に大規模な連続防御陣地線を構築する計画が生まれます。「東の壁」と呼ばれた防御陣地構築計画は東部戦線を北から南へ貫く縦深防御陣地を三ヶ月の工期で築城するというもので、東部戦線にある兵力の大半と訓練中の兵士を用いて築城にあたるという大規模な計画が立てられたものの、この計画はヒトラーの決裁を得られず、中止されてしまいます。

　守勢転換を命じた本人が「東の壁」計画を拒絶した理由は主に政治的なものだといわれています。ドイツ軍が東部戦線で一斉に防御陣地を作り始めたら同盟国のドイツに対する忠誠心が揺らぐのではないかとの懸念があったからです。慢性的に兵力不足に陥っていたドイツ軍にとってルーマニアなどの東欧諸国軍とイタリア軍の兵力は無くてはならない存在となっていた上、これらの同盟国軍は来るべき1942年の夏季攻勢で攻勢の側面を固める重要な役割を負っていましたから、守勢を印象づけて同盟国の離反を招くことを警戒しての決定です。

　このために東部戦線の防衛線は1941年12月に開始されたソ連軍の冬季攻勢を支えた体勢のまま放置されることとなり、東部戦線の防衛線は「東の壁」で計画された独軍ドクトリン通りの「弾性防御」用の縦深陣地帯ではなく、点在するストロングポイントの群れが続く拠点防御方式で、それらを結ぶ塹壕戦を構築できれば・・・といった程度に留まります。

　そんな中で1942年の夏季攻勢の準備は着々と進められ1941年冬の戦いで消耗した兵員と機材の補充が進められます。しかしこの補充は全軍同様に行われた訳ではありません。機材と兵員は夏季攻勢に参加する南部の師団群に対して集中的に実施され、中央軍集団と北方軍集団に所属する師団群に対する補充は最小限に留められ、日々の戦闘消耗をようやく補える程度の水準でしか行われません。そのために1942年春の東部戦線には明らかに異なる2種類の師団が生まれます。

　ひとつは夏季攻勢に用いられる予定の師団で、これらは一般的な歩兵師団であれば9個歩兵大隊を持ち、トラックなどの輸送車輌も優先的に補充されている兵員、装備ともにほぼ充足した師団群です。そしてもうひとつのグループは中央軍集団、北方軍集団に配置された守勢用の師団群で、1941年のソ連軍冬季攻勢で受けた損害を十分に補充されないまま戦い続けているグループです。これらの防御用師団の多くは歩兵大隊を6個しか持たず、大隊、中隊の兵員も定員を大きく割っているのが普通でした。「弾性防御」は主陣地での防御にあたる戦闘グループが縦横に動き回る必要があり、逆襲には強力な反撃部隊を予備として控えておく必要があります。このために歩兵戦力が6個大隊に縮小された師団は継戦能力に大きな問題を抱えることになります。

　さらに防御師団は南方の攻撃用師団に対して装備しているトラックの供出が求められます。補給用のトラックが取り上げられ、下手をすると馬まで引き抜かれてしまうような状況で、防御師団群は陣地戦を捨てて機動戦を選択することも困難な事実上の張り付け師団となってしまいます。そして更に困難なことにただでさえ数の少ない戦車師団は戦車1個大隊を持つのみで、自動車化歩兵師団も絶望的に少なく、装備と兵員の充足率も極めて低いという状態であるため、敵の攻勢を跳ね返す有力な機動反撃部隊を構成できないという問題を抱えてしまいます。

　それでも前線では「弾性防御」用の築城が進められます。築城の代表的なパターンは兵力不足のために前進線を省略し、前哨線とバトルゾーンとなる主陣地、そして後方陣地として機能する拠点防御的な全周防御陣地群とで構成される省略型の陣地です。多少のアレンジはありながらも基本的に公式の防御ドクトリンに則った陣地が造られ始めたのは、現状の拠点防御用の陣地が冬季戦で雪と氷の中で応急的に作り上げられたものだったので、雪解けシーズンを迎えてそれらの主要構築物の多くが「溶けて」しまったという事情もあります。引き継ぐものが無ければ原則に戻りやすい上に、前線で生まれた拠点防御方式は陸軍の組織を上に行けば行くほどに「不正規なもの」として嫌悪されていたからでもあります。

　別の戦線で攻勢に出るためにより少ない兵力で損害を最小限に抑えることは「弾性防御」誕生時の目的でもありますから中央軍集団や北方軍集団の軍団レベルの高級指揮官がこのような選択を行ったのは不思議ではありませんが、1942年当時の東部戦線には1917年当時の西部戦線と異なる点として、兵力の圧倒的な不足と陣地内の運動戦という「弾性防御」の肝となる動きができる熟練した兵士の不足という問題があり、もはや頼みの綱は砲兵火力のみ、という心細い状態が1942年の中央軍集団と北方軍集団の師団群に訪れることになります。
　しかも敵歩兵部隊を最大の敵として考案された「弾性防御」ドクトリンを悩ませる東部戦線特有の敵がありました。それは予想外に強力なソ連軍戦車です。 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/07/109</link>
			</item>
	<item>
		<title>独陸軍、旧ドクトリンを更新せず</title>
		<description>　1941年の冬に猛烈な勢いで全軍に浸透した「ハリネズミの陣」（拠点防御あるいはストロングポイント方式）ですが、そのまま素直にドイツ陸軍の防御ドクトリンに組み込まれた訳ではありません。ドイツ軍の公式な防御ドクトリンは1942年の夏になってもまだ「弾性防御」のままです。

　前線での背に腹は変えられない事情によって突如現れた新しい戦闘方式を陸軍が公式のドクトリンにまとめ上げるにはドイツ陸軍中央がこの戦闘方式についてあまりにも情報が乏しかったからです。前線で何が起きているのかがよくわからない。そしてそこで採用されている手段の有効性が評価できないという困惑を東部戦線最初の冬季戦を終えた1942年４月のドイツ陸軍中央の動きから感じ取ることができます。

　1942年4月、長く苦しかった冬季戦の評価が行われ、そこで突如現れた新戦術についての評価が試みられます。「弾性防御」と「拠点防御」の比較です。既に東部戦線にあった部隊の殆んどが「拠点防御」を体験していましたが、あらためて調査が行われるとその評価はけして一様ではありませんでした。肯定的な評価も多ければ、否定的な評価も多数ありました。

　否定的な評価としてはまず、拠点防御は小規模な部隊が村落に集中するので敵の砲撃に対して脆いというものがあります。さらに点在する拠点による防御では敵の浸透を押し留めることが難しく、特に夜間の防衛は困難で、友軍の逆襲も損害が大きくなるといったものでした。そして拠点防御方式は各拠点が孤立しやすいという本質的欠点を持っているという指摘もあり、こうした短所を指摘した部隊の中には今後、拠点防御の実施を禁じた例もあります。しかし拠点防御に積極的に賛成しなかった部隊もその効果をある程度認めているものが大半でした。たとえば拠点防御は従来の連続防衛線方式（弾性防御を含む）を実施できない兵力的な限界がある場合に有効な非常手段である、といった少々煮え切らない評価です。

　そんな中で大規模な事情聴取が1942年8月になって実施されます。これは拠点防御と連続線方式かといった二者択一を迫るものではなく、拠点防御方式をドクトリン化する場合の妥当性を検討するためのものでした。

　そもそも拠点防御方式は特に革命的なものではありません。たとえば「フランス戦で連合軍主力がダンケルクから海に追い落とされた後、パリに進撃するドイツ軍を押し止めるためにフランス陸軍が採用した戦術もこれと良く似ているんじゃないか？」と気づいた方がいるかもしれません。あなたは正しい。しかも鋭い。

　確かに良く似ています。第二次世界大戦でもっとも旧式な発想に囚われていたとされるフランス陸軍でさえ組織的に採用できた戦術を最も進歩していたはずのドイツ陸軍がなかなか採用できなかった点が面白いところです。すなわち拠点防御方式とは陸戦理論で最先端を進んでいると他国から思われ、しかもそうした自負もあるドイツ陸軍中央の将校達にとって「それのどこが良いのだ？」と思わせる程度に戦術的な発想としては平凡なものだったのです。

　しかしこの調査の結果、拠点防御には重要な特徴があることが確認されます。
　調査に対してある部隊の指揮官は拠点防御方式の利点として「部下の統率」を挙げています。連続線方式の防御戦よりも部下を指揮しやすいというのです。村落を中心とした全周防御陣地に配置した兵員は連続した塹壕線に配置した兵員よりも動かしやすく、しかも少数の未経験の若年指揮官がそれを実行できたという主張です。これは野戦将校の深刻な不足に苦しむドイツ陸軍にとって重要な意味を持ちます。拠点防御は若年の指揮官にも指揮しやすく育成に手間のかかる士官の数を節約できるということです。

　そしてもう一つの利点として兵士達の士気の問題が採り上げられています。小規模な全周防御陣地内に配置された兵士達は連続線式の防御陣地に配置された兵士達よりも互いの連絡が比較的密にとれるため、何につけても協同しやすく士気も維持されやすいということです。苦しい戦闘で打ちひしがれた兵士の士気を支えるためにも拠点防御は有効だとする主張は注目を集めました。連続線方式の塹壕に配置された兵士達は心理的に孤立しやすく、士気が低下しやすいが全周防御陣地に配置された兵士達は孤独感が少ないという評価です。これも未経験な新兵や体力的に劣る補充兵の割合が急速に増えつつあったドイツ陸軍にはきわめて魅力的なものです。

　けれどもこのようなドイツ陸軍の現状に即した利点があったにもかかわらず拠点防御方式は正規のドクトリンに組み込まれることはなく、ある限定的な状況における非常手段といった評価のみで終わります。拠点防御を支持する動きは前年の冬季戦が繰り返されると主張する敗北主義として片付けられてしまいます。1942年の夏、コーカサスへ向けての進撃が始まる直前のドイツ陸軍はまだ第一次世界大戦で生まれた「弾性防御」を正規の防御ドクトリンとして堅持していたのです。 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/06/108</link>
			</item>
	<item>
		<title>消耗と厳寒と死守命令が生む新戦術</title>
		<description>　1941年の冬、モスクワ攻略失敗後のソ連軍大反撃にドイツ軍が何とか持ちこたえたことはよく知られています。けれども消耗した戦力でどんな方法で耐えたのかが説明されることは殆んどありません。「ヒトラーの死守命令が下された」「ソ連軍の攻撃が拙劣だった」とも言われますが、独ソ戦の転換点だったこの冬にドイツ軍は具体的にどんな防御戦術を採って全戦線の崩壊を防いだのかを追いかけてみます。

　東部戦線の最大の特徴はそれ以前とは桁外れに広い戦場にあります。この広大さのために戦線を北から南まで貫き通す塹壕陣地などはとても建設できませんから第一次世界大戦のような膠着状態は発生しようがありません。しかも従来では考えられないことですがドイツ軍の各部隊の間に大きな空白地帯が生じることも当たり前のようになっています。

　そして東部戦線全体を鳥瞰図的に見れば北方軍集団と中央軍集団の間は貧弱な道路環境によって分断され、中央軍集団と南方軍集団の間も地形的に分断されています。このような形で広い戦線に薄く配置されたドイツ軍は、限られた兵力で各所の防衛戦をどう戦うか、という極めて困難な問題と直面します。

　地理的条件と兵員の不足によって、既に1941年秋の段階でドイツ歩兵師団群は防御に際してその広過ぎる防衛正面に十分な兵員を配置できません。そのためにたとえ伝統的な弾性防御を準備しても、そこには前進線も前哨線も設けられなくなります。前哨線が無いのですからバトルゾーンを敵の砲兵観測を妨げる逆斜面に設けることも放棄せざるを得ず、弾性防御本来の機能が骨抜きになってしまいます。

　前進線や前哨線に配置する兵員がいない、という単純かつ深刻な克服し難い事態が伝統的な弾性防御に事実上の止めを刺してしまったわけで、機動戦で戦車師団を無理を承知で遮二無二追いかけさせられる場合だけはでなく、機動戦が発生しなくとも地理的条件と兵員不足という問題が従来の防御ドクトリンを実施不能にしたのです。こうしたことは1941年の初秋、攻勢が一段落した段階で生じだ各所の防御戦で明らかになって来ます。

　そして1941年12月8日、モスクワ侵攻作戦が完全に頓挫した日から2日後、ドイツ軍は「総統命令39号」によって全面的な守勢に入ります。「総統命令39号」は実はそれよりかなり前から準備されたものでした。けれども攻勢につぐ攻勢で攻め進んで来たドイツ軍全てが総統命令によって守勢に移行した歴史的な瞬間であることは確かにその通りで、どんな本を読んでもそんなことを書いてあるものですが、この時にドイツ軍が現在の戦線の後方に作り上げようとしていたのは、もはや実施できないと思い知りつつあった伝統的な「弾性防御」用の陣地でした。

　第一次世界大戦と同じように侵攻以来の消耗で疲れきったドイツ軍に対して戦線整理と弾性防御陣地によって必要最小限の兵力で戦線を維持し、その間に兵力の再編をはかるという目的をもって「総統命令39号」は発令されたのですが、たとえ機動戦でなくても弾性防御を効果的に実施することは東部戦線ではとても難しく、さらに厄介なことは敵であるソ連軍も機動突破作戦においてはその巧拙は別としてドイツ軍とほぼ同じ思想を持っていたことです。

　ドイツ軍の守勢転換はソ連軍の冬季攻勢に対応したものというよりも、モスクワ攻略の希望が消えつつあったことから発した越冬守勢を目指して計画されたものです。そのために当面の防衛線を構築する予定でしたから当時のドイツ軍の現状で出来る程度の防衛線として、兵力不足から前進線と前哨線を欠き、バトルゾーンとなる主陣地と後方の予備だけからなる縦深の浅い省略型の弾性防御陣地を作り上げる予定でした。

　しかし総統命令39号の発令がソ連軍の攻勢開始2日後の12月8日になってしまった以上、何もかも手遅れとなり、部分的に急造の薄い塹壕線が築かれただけに過ぎず、ドイツ軍の防御戦術はソ連軍の冬季攻勢開始時点で、「弾性防御」以前、すなわち第一次世界大戦前半の様式に戻ってしまっています。当然のことながらこれらの貧弱な防衛線はソ連軍の本格的な攻勢を支えられず各所で突破されてしまいます。

　兵力不足で連続した防衛線が構成できない。
　予備兵力が無いので簡易な弾性防御もできない。
　戦車、自動車の不足で機動戦にも移行できない。
　猛烈な寒さで野戦そのものが難しい。

　そんな状況でドイツ軍の戦線は次々に破られて全戦線にわたる退却が始まります。そして12月18日、戦線崩壊の危機を目の当たりにしたヒトラーは前線の部隊に退却を禁じる有名な「死守命令」を下します。
ここで、ドイツ軍を窮地に立たせた三つの悪条件が揃うことになります。

１．兵力不足による防御線の構築不能
２．厳寒と悪天候、冬季装備不足による野戦の実施不能
３．ヒトラーからの「死守命令」による撤退不能

　この3つの悪条件の下で、ソ連軍の猛攻に曝された各部隊は独自の工夫を開始します。前線の部隊はもはや連続した防衛線に残り少ない兵力を配置することをやめ、冬季装備が無いのに開けた野原に陣地を作る努力もやめ、残り少ない兵力によって小規模な守備隊の守る拠点群を構成して防戦にあたり始めます。

　その拠点は兵士を厳寒から守れる村落を中心としたもので、連続した防御線の構成はとっくに不可能になっていますから互いの拠点の連絡が薄い、あるいは無いことも許容されています。「死守命令」の下で包囲を覚悟の全周防御陣地を作り上げて立て篭もるわけですが、これは何かに似ています。

　それは独ソ戦初期の大包囲戦で先行して孤立した戦車部隊が採用した「ハリネズミの陣」そのものでした。夏の包囲戦で戦車部隊が敵の逆襲の波に包まれたときに採用された戦術が厳寒の中で敵の大反撃に呑み込まれつつあった歩兵部隊でも採用され始めたということです。いずれにしても後退を禁じられたドイツ軍各部隊が冬季装備が不足したまま抵抗を継続するためには他に選択肢はありません。

　必要に応じて選択された苦し紛れの方策でしたが、この抵抗方式はある程度の効果を上げ始めます。そして非常に短期間のうちにドイツ軍の抵抗はそれまでのドクトリンに沿った防御戦術から村落中心の拠点防御へと姿を変えて行きます。前線で見られたこの注目すべき動きはヒトラーからも追認され、12月26日に「ハリネズミの陣」（拠点防御）を奨励する命令が下されますが、その時には既に「ハリネズミの陣」は全軍に波及し、ドイツ軍の戦線はそれまでの連続した防衛線から、互いに薄く結ばれた防御拠点の群へと変わり切っていました。

　窮地に立たされたとき、今までの方法論を捨て去って新しいやり方を現実に即した形で採用して危機を切り抜ける現場と、その独断専行を追認する上司というビジネス美談の見本のような展開が東部戦線最初の冬に見られたのですが、その評価はまた後でするとして、とにかくここは12月8日の守勢転換命令からわずか18日間で旧ドクトリンを捨て去り、新戦術に移行したドイツ陸軍という組織に驚いておくことにいたしましょう。 </description>
		<link>http://stanza-citta.com/bun/2008/08/03/107</link>
			</item>
</channel>
</rss>
