幻の東部戦線 31 (戦車1万輌の調達計画)

 

 今回は西ドイツが戦後、軽戦車を1万数千輌もまとめて発注しようとした、というお話です。

 戦車や大砲はアメリカからの供与を受けた新生ドイツ連邦軍ですが、新しい機械化軍の足となる装甲車については当初から独自の方針を堅持しています。最前線までの輸送を主体に考えられたアメリカ製の兵員輸送車はドイツ軍にとって魅力に乏しかったのです。かつての東部戦線で体験したソ連軍相手の機動戦では装甲擲弾兵はできる限り下車せず戦車と共に機動し続けることが最上の策でした。ドイツ軍はそうやって日に日に乏しくなってゆく歩兵戦力の維持に努めた経験がありますから、歩兵を乗せる装甲車には乗車戦闘という要素が不可欠でした。トラックの荷台を低い装甲で囲っただけのM3シリーズや、装甲で覆われているけれども乗ったら何もできないM113では火力に優るソ連軍相手の機動戦に不向きだと考えられていたからです。

 

 完全装甲、乗車戦闘という要件の他にもどうせ一度に大量に装備する以上、基本デザインを定めてそれをベースに多用途に用いるファミリー化も重要視されています。これもまた大戦中に多くの車種を造り過ぎたとの反省に立ってのことです。そのためにドイツ連邦軍は軽装甲戦闘車輛の基本型を「クルツ」と「ラング」の2本立てとする構想を固めます。装甲偵察部隊に配備する半個分隊が乗車できる小型で軽快機敏な「クルツ」と、装甲擲弾兵部隊に配備する1個分隊が乗り込める「ラング」の組み合わせです。

 

 けれどもこの装甲車の調達がかなり微妙な道を辿っています。新生ドイツ連邦軍が最新鋭装備を整えることはソ連軍にとって以上に旧敵国である西欧諸国にとっても脅威だったからです。技術と経験と経済力に富むドイツが再びティーガーやパンターのような卓越した性能の装甲車輛を独自に開発して装備されてはたまらない、というのが西側諸国の本音です。実際には1950年代半ばの西ドイツには装甲車輛を新規開発して大量生産できる企業はありませんからそうした心配は無用でしたが、調達には相当な配慮が行われていたようです。

 

 まず装甲偵察部隊用の「クルツ」ですが、そのベースに選定されたのはフランスのオチキス製の全装軌式装甲輸送車でした。この車輛はフランス軍の装甲部隊用に開発されたもので、試験成績も良好、制式採用もほぼ決定していたところ、ベトナムでの戦闘による予算緊迫により生産設備ごと宙に浮いていました。これをフランスから譲り受ける形で採用することになります。20mm機関砲の砲塔を取り付け、車長と操縦手、兵員3名が乗るミニ歩兵戦闘車です。要はII号戦車に兵士が3人乗っているようなものです。今更20mm機関砲を持ち出しても、と思ってしまいますが、ドイツ連邦軍の装甲偵察隊はM41戦車と「クルツ」の迫撃砲搭載型で補強されていますから、ちょっとしたミニ戦闘団的な使いでのある戦力となっています。しかもフランスでの開発が終了していたこともあり、機械的信頼性も良好で「クルツ」は盛りだくさんで窮屈というこの頃のドイツ戦闘車輛の特徴を持つものの、その選定は正解だったといえます。1962年までに合計2347輌が製作されその後も長く使われる車輌となりました。

 

 その一方で、装甲擲弾兵部隊用よりも一般的で大量装備を必要とする「ラング」の調達は微妙というより、むしろひと言でいえば出鱈目でした。まず調達計画が常識を欠いています。当初の計画で1万680輌一括発注という驚くべきもので、平時にもかかわらず戦車の調達計画としては世界最大級ではないかと思います。選定されたのはイスパノスイザ製のHS30装甲車です。「クルツ」より大型かつ全装軌式で事実上の軽戦車ですが、このような前代未聞の大量発注が装甲車輌を大量生産したことも無いスイス イスパノスイザ社に出されます。しかも奇妙なことに実用試験も行われないままの発注です。

 

 この1万680輌という大規模な調達計画は1956年のものですが、前回までに紹介したheeresstruktur1では装甲擲弾兵部隊を擁するのは戦車師団4個でしかありません。1万輌の装甲兵車は明らかに過剰です。過大に見える調達数であるため疑いの目をかけられ、その上、実用試験抜きでの調達による不具合と改修が続発したこともあって、「ラング」の調達に絡む贈収賄事件が発覚し、一大スキャンダルへと発展します。再軍備に絡む装甲車輌の大量調達がある種の利権を生んでいたということですが、それはまた後で触れることとして、HS30とはどんな車輌だったのでしょう。

 

 この車輌もドイツオリジナルの設計ではなく、オチキス製の「クルツ」より4年程遅れて1955年に完成していたものです。20mm砲塔搭載のSPz11-2で8.4トンの「クルツ」に対して「ラング」は標準的な20mm砲塔装備の装甲歩兵戦闘車タイプであるSPz21-3で14.6トンあります。乗員は車長と操縦手、砲手を含めて8名。車体は三分割され、前部に操縦席と砲塔があり、後部にエンジンルーム、その中間に残りの兵士が押し込まれます。戦闘時には全員が20mm砲塔の他、2枚の四角い鉄板でできた天蓋を跳ね除けて6名の兵士が四方に向けて射撃し、停車時ならば操縦手もハッチから身を乗り出して軽機を撃つというハリネズミぶりで、まるでソ連軍歩兵の海の中で孤立することを想定しているような雰囲気です。とはいうものの20mm砲塔が撃ち始めれば兵士達は頭を下げざるを得ませんし、全員が片側を射撃することもできません。そして誰か1人が撃ち倒されても大騒ぎになること必定の満員乗車でした。せめて20mm砲塔が無ければ相当余裕が出るように思えますが、当時のドイツ連邦軍は車載兵器の火力増大について昔の日本海軍並みに執着しています。この執着も見ておくべきポイントだと思います。

 

 そんな車輌の1号車が見本として1957年中に引き渡されたものの、量産計画はまったく進みません。スイス イスパノスイザ社に量産能力が無いからです。1万680輌の供給に応えることができないという理由でイスパノスイザ社への発注は6202輌とバッサリと削られ、1957年2月25日に1958年2月納期で結ばれた契約では4412輌にまで減らされますが、それでもスイス イスパノスイザ社にはたった1年弱で数千輌の戦車を生産する力はありません。結局、HS30の量産車体はイスパノスイザ社では製作されず、イギリスのレイランド社に2800輌、ドイツ国内のハノマーク、ヘンシェル社に825輌ずつが発注されることになります。HS30用のエンジンはイギリスのロールスロイス社が6680基を受注、装甲兵車が搭載する20mm砲3495門はドイツのラインメタル社が受注します。そしてイギリスで完成した量産車が初めてドイツに届いたのは1958年12月のことで、部隊への引渡しは1960年になってから行われています。

 

 結局、このSPz「ラング」はイスパノスイザ社では量産されず、車体とエンジンはイギリスから買い、武装と車体の一部は復活しつつあるドイツ国内の兵器産業が受注したのです。結果的に「クルツ」は旧敵国であるフランスから買い、「ラング」は同じく旧敵のイギリスから買って、両者の武装と「ラング」車体の一部をドイツの兵器産業が担った形です。なんだか最初から予定していたような結末でしたが、戦後最大規模の戦車発注はこのように落ち着きます。納期の遅延で不足となった装甲兵車はアメリカからの供与車輌とイギリスが放出した旧式なブレンガンキャリアで応急的に埋め合わされています。

 

 無分別とも思える1万輌の調達計画と、配備してからの故障続発という欠陥車輌でもあったことで「ラング」の計画そのものが贈収賄の結果、大きく歪められていると納得されがちですが、どうもそれだけではないようで、1万680輌が6680輌に、そして4412輌にまであっさり削られた背景には別の事情がありそうです。戦後のドイツ連邦軍の調達計画の経緯は完全に明らかにはなっていませんが、イスパノスイザ社に最終的に発注された1958年2月25日という日付がヒントになります。

 

 再軍備を許された西ドイツでしたが、その軍備には大きな制限が課せられていることは有名です。大型潜水艦の建造など現代に至ってもその制約は続いています。そして再軍備当時のWEU(西欧同盟)は西ドイツが独自に戦車を開発することを認めていません。ドイツの技術と経済力で強力な戦車部隊を編成されることを嫌ってのことです。そうした反発を和らげるためには旧敵国の中でも特にフランスから兵器を購入するか共同開発する必要がありましたし、「クルツ」の計画は明確にその意図を持っていました。余計な話ですが、AMX-30というレオパルトIの不出来な妹のような戦車が形ばかりの「共同開発」計画と、まるで予定していたかのような計画分裂で生まれたという経緯も似たようなものです。大げさに言えば戦後の西側世界で計画された主力戦車計画はチーフテンやM1エイブラムスの開発までもが「ドイツが造るかもしれない新戦車」との関係を何かしら意識しています。

 

 そして1958年はWEUが西ドイツ国内での戦車開発を承認した年なのです。

 SPz11-2「クルツ」にSPz21-3「ラング」、そしてタミヤが40年も前から模型化したので日本ではそこそこ有名なJPz4-5ヤークトパンツァー カノーネなど一連の軽戦車ファミリーには「-」で結ばれた二つの数字が型式番号となっています。4-5なんて日本語でどう読んでいいのやらさっぱりわからないので誰もが「カノン」「カノーネ」と呼びますが、この「4年5組」方式の型番こそ軽戦車のファミリー化を象徴するものです。

 

 「4年5組」の学年は武装と車種、組が車台の型式を表しています。「クルツ」の原型である転輪4個の車台が「1組」、SPz11-2の5個転輪が「2組」、HS30の車台が「3組」、「カノーネ」に用いられた再設計されたHS30の拡大車台の転輪数違いが「4組」と「5組」で、90mmのラインメタル砲(4年)を搭載した「カノーネ」がJPz4-5なのはそういう意味です。対戦車ミサイルを搭載した「ヤグアル」の先輩である「ラケーテ」は3-3になります。

 

 それでは問題のHS30車台ファミリーのトップに立つ学年ナンバーが「1」の車輌、すなわち「1-3」とは何なのでしょうか。実際に大量生産されたのは21-3(2年1学科の3組・・ですね)でしたが、ドイツ連邦軍が本当に欲して期待しているからこその「1」なのですから、それが何であるかはきわめて重要です。

 そして「1」とは90mmDEFA砲を搭載した突撃砲、JPz1-3 初代「ヤークトパンツァー カノーネ」でした。

 ところがこの車輌は試作されたものの母体であるHS30そのものの欠陥と窮屈さによって使い物にならないと判断され、試作車のみで中止となっています。中止してもさほど問題にならなかったのは出来の悪さもさることながら1958年に独自の戦車開発が認められたからでもあります。計画をごっそり削減できた理由はその辺りにあるようです。

 

 JaPz1-3を指して「これは戦車ではない」「主砲はフランス製なので国内開発ではない」と1950年代の日本のような詭弁を弄するつもりがあったかどうかは全くわかりませんし、フランスやイギリスが立派な対戦車兵器である突撃砲にそんな理屈を許したかどうかも想像するしかありませんが、事実として1956年当時、膨大なHS30調達計画の先頭を走っていたのは「突撃砲復活計画」だったということです。全師団に行き渡る突撃砲の調達計画があればこその1万680輌でした。

2月 21, 2012 · BUN · 5 Comments
Posted in: 西ドイツ再軍備, NATO, 冷戦, 幻の東部戦線

5 Responses

  1. きっど - 2月 21, 2012

    「砲塔が無いから戦車じゃないです」
    と第二次大戦時の砲兵科の様な事を言い張って、実質的な「戦車」を全師団に配備しようとした、ということですか。
    で、本物の戦車が開発できるようになったので、用済みの紛い物はあっさりと見捨てられたと。

  2. BUN - 2月 22, 2012

    きっどさん

    もしかしたらそうかもしれないけれど、事実として突撃砲の開発がWEUの承認より先行している、というお話です。ドイツ軍がどうして突撃砲に拘ったかについては次回に触れる予定です。捨てちゃいないんですよね。

  3. スキュラ - 2月 22, 2012

    本当に突撃砲が、戦車の紛い物でしかないなら、まさかこんな大量の発注は出ないはずでは?
    ということでしょうか。
    たしかに戦中、戦車が突撃砲と化したのをドイツは知っているはずですし。

    どうでもいいですが、つい兵器そのものの方に目がいきがちです。
    結果だけでなく過程も重要、という趣旨のブログなのに…

  4. BUN - 2月 22, 2012

    スキュラさん

    もともと飛行機や戦車が好きで、その裏にある事情が知りたいと思い始めるのがこの楽しみの始まりです。外観より中身、中身より理由が知りたくなるのが普通なのではないかと思います。
    突撃砲計画のお話は次回に続きます。

  5. 戦略目的と編成ファン スキピオ・クマさん - 2月 24, 2012

    お話の内容を理解するのに時間がかかり、いつも質問が遅くなってしまい申し訳ありません。 歩兵戦闘車のベースとして適当なタマはAMX13のAPCやM59やサラセン・EBRなど色々ある中で、西ドイツ軍がわざわざ乗降に不便なHS30を採用した理由は、突撃砲のベース車体が欲しかったことが根底に有ったのですか。
    今まで西ドイツ軍たるものがなぜあんな不便な車体を?と、不思議に思っていましたが今回のお話で納得できました。
    しかし突撃砲って・・・大口径長身砲を搭載すると、戦闘室の主人は巨大な動き回る閉鎖器になるんですよね。 次号のオチを楽しみにしています。

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