幻の東部戦線 13 (闘将マントイフェル)

 リデルハートは1944年6月6日のノルマンディ上陸以降の西部戦線史を書き上げるためにギュンター ブルーメントリット大将からのヒアリング内容を全面的に参考にしています。リデルハートの接触のあったドイツの将軍達の中で最も親しく交わったのがブルーメントリットだったと言われていますし、リデルハート自身も実際にドイツ陸軍の大軍を率いて豊富な実績を持つブルーメントリットの見識からかなりの影響を受けているようです。

 

 ブルーメントリットは何といってもドイツの陸軍大将ですから西欧同盟が計画していたライン川防衛線構想には極めて懐疑的です。そもそもドイツの国土の大半を前哨地帯として放棄してしまい、ライン川という一本の線に沿った古風な防衛線を築くという発想に賛同するドイツ将校は稀でしょう。イギリス人であるリデルハートにとってはライン川東岸のドイツ国土はまさに前哨地帯として使って何の問題もない場所でしたが、1930年代の機動戦論者であり、機動戦思想で「実はドイツ軍にまで影響を与えていた」と売り出し始めたリデルハートにとってライン川での線形防御陣は「モントゴメリーや第一次世界大戦のように古くさい」ものと感じられたことでしょう。

 

 そして軍人として遥かに格上だったブルーメントリットがライン川防衛線構想に否定的見解を持ち、ライン川東岸での機動戦による防御を説いたとしたら「機動戦思想のパイオニア」を看板にしているリデルハートがそれに賛同しない訳がありません。もし万が一、対ソ戦がライン川を挟んだ昔ながらの戦いで終始したらリデルハートの出番など無くなってしまうことでしょう。こうして捕虜収容所にあったドイツの将軍達との親交で得た見識をもとにリデルハートはライン川東岸での機動防御とそれを可能にする唯一の手段であるドイツ再軍備を提唱するというイギリス人には珍しい行動に出ます。ドイツ再軍備論を掲げるリデルハートが実際に後押ししたのはブルーメントリットと同じく捕虜時代に親交のあったハッソ フォン マントイフェル大将でした。

 

 マントイフェルは1944年春からドイツ陸軍のエリート師団「グロスドイッチェラント」を率いてすでに敗色の濃くなった時期の東部戦線で戦い抜いて実績を積み上げた戦争後期のヒーローの一人です。1944年12月に西部戦線で開始されたアルデンヌ攻勢では主力であるSS第6戦車軍が攻めあぐむのを尻目に第5戦車軍を率いてアメリカ軍戦線を深く突破した猛将です。ソ連軍との本当の戦いを知っていて、しかも一番厄介な存在となった後期のソ連軍を手玉にとった経験のある将軍はドイツ軍の中でもそうはいません。

 

 ドイツの元将軍グループの中で実は数少ない「本物の対ソ戦プロフェッショナル」であるマントイフェルの軍事的才能には絶大な信用がありましたが、その反面、ヒトラーからの寵愛をたっぷりと受けて優遇された人物でもあります。反ナチス的言動も無ければヒトラー暗殺事件への関与を疑われることもないまったくの武人でした。変に政治的な行動を取らなかったことが戦犯訴追からマントイフェルを救ったとも言えますが、単に運が良かっただけかもしれません。そして戦後になっても猛将らしい性格は衰えず、野心を隠すことのないアグレッシブな発言と行動は元将軍たちの中で突出していて、インテリ趣味のシュパイデルや偏屈なガイルにはないその単純明快さゆえに人望も集めていました。

 

 1947年に釈放されるとマントイフェルもまた他の将軍達と同じように自らの見識をレポートにまとめ、シュパイデルやガイルと同じようにドイツ国内に向けてドイツ再軍備論をあちらこちらに送り始めます。こうした活動は連合軍側の、とくに米軍の黙認の下に行われ、ドイツ再軍備に懐疑的な西欧社会に対しては西欧防衛の見地から重要であるとのリデルハートによる援護射撃が加わりました。

 

 マントイフェルの主張には実戦経験の深さから来るぶっきらぼうな程の率直さがありました。

 マントイフェルは再軍備論の中で一定の支持を得つつあった段階的再軍備論とでも言うべき警察予備隊または機動警察案といった軽装備部隊をとりあえず再軍備の第一段階として編成する構想についてまったく否定的です。

 「軽装備の補助防衛部隊などは大火力を誇るソ連軍砲兵に与える馬草でしかない」と断言し重装備の戦車師団と装甲擲弾兵師団によるのでなければソ連軍の侵攻は止められないと説くマントイフェルの妥協の無い言葉には単純な威勢の良さだけではない経験から来る説得力があったのです。

 

 

 1948年、戦後の西欧社会で高い地位を占めるには多少粗野な傾向のあるマントイフェルに会見を求め、接近したのは戦後の西ドイツで一大勢力を築きつつあったキリスト教民主同盟の指導者であるコンラート アデナウアーでした。元ケルン市長でナチスにその座を追われ、1944年には強制収容所に送られた経験を持つアデナウアーでしたが、そのナショナリズムと反共主義は揺ぎ無く、しかも現実的姿勢を崩さない戦後ドイツの大政治家です。そのアデナウアーはどうもマントイフェルの率直さを相当気に入っていた様子があり、その後1949年中にも度々の会見の場を持ち、書簡のやり取りを通じて再軍備実現の際には初代国防大臣の座を約束していたとも言われています。

 

 1949年の総選挙に勝利したアデナウアーに向けてマントイフェルが送った書簡には将来考え得る対ソ戦とドイツの安全保障の方向性についてかなり具体的に書かれています。

 西欧諸国はソ連軍の侵攻に対してアメリカ軍の反撃部隊来援までの6ヶ月間を耐え抜ける軍備が必要で、そのためにはドイツの軍備はNATO体制に組み込まれるのが最も現実的である、というものです。また、マントイフェルも他の将軍達と同じく再軍備のブレーンとなる組織を早急に作り上げるべきであるとしています。将軍達にとって具体的な部隊編成は参謀本部再建の後に続くもの、と考えられていたのです。そして一年半から二年のうちに早期の再軍備を目指し、戦車師団と装甲擲弾兵師団30個を主力とする陸軍とその援護と火力支援を担当する強力な戦術空軍の育成、および沿岸防衛用海軍部隊の創設を強力に提言します。

 

 しかし1949年秋という時期にこの提言は少々早すぎたようです。マントイフェルにはシュパイデルのような慎重な政治的配慮が欠けていました。マントイフェルの性急な提言は彼に好意的なアデナウアーからもドイツを取り巻く国際的な感情を考えた場合「問題外である」と評され、マントイフェルとアデナウアーの関係は段々と冷えて行きます。

 

 ドイツ連邦共和国の誕生はマントイフェルには大きな節目と考えられたのですが、まだまだ本格的な再軍備を公言するには時期尚早だったのが1949年の状況でした。

10月 5, 2011 · BUN · 2 Comments
Posted in: 西ドイツ再軍備, NATO, 冷戦, 幻の東部戦線

2 Responses

  1. 扶桑 - 10月 5, 2011

    こんにちわ。いつも楽しく拝読しております。

    >>一年半から二年のうちに早期の再軍備を目指し、戦車師団と装甲擲弾兵師団30個

    確かに、ソ連軍を相手に機動防御を行う以上、高度に機械化された兵団がそれくらいは必要かなと感じられますが、当時の西ドイツに、これだけの大兵力を維持するだけの国力はあったのでしょうか? 言い換えれば、マントイフェルの提案に経済的裏づけはあったのでしょうか?

    主力装備がある程度まで米軍から供与されたとしても、平時のランニングコストすら耐えがたいと思うのですが・・・・

    >>援護と火力支援を担当する強力な戦術空軍

    これは、「機動防御をする以上、制空権が絶対に必要。だから、ソ連空軍相手に制空権を取れるだけの戦術空軍がなきゃ話にならん」という暗黙の前提があるものと推測します。
    ですが、西ドイツ(および初期のNATO)に、緒戦において西欧の制空権を確保するための具体的なプランがあったのでしょうか? 兵力でも縦深でも有利なソ連空軍相手では、本格的な米軍到着までのNATO空軍で、持ちこたえられるとは思えないですが・・・・・

    そしてもう少し踏み込むと、制空権を取れる見込みがない以上、川沿いの防御線だろうと機動防御だろうと、どっちも非現実的なんじゃないか、という思いも湧いてきます。

  2. BUN - 10月 19, 2011

    遅レスご勘弁ください。
    ソ連軍は確かに兵力で勝っていますが、それなりに苦しい部分もありますね。
    例えば予備兵力から遠く引き離されている点などです。
    空軍については1950年代は特にですが、装備の更新が進んでいた西側に比べるとソ連軍優位とはいい難いものがあります。

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