砲兵の仕事 35 (アメリカ軍の自走砲)

 アメリカ軍内での砲兵自走化要求はドイツ軍と同じく戦車部隊から生まれています。機動を戦うためには(戦争初期の)戦車が装備していない大口径の野砲を自走化して進撃に追随できるようにして欲しい、という要求自体はドイツ軍内で生まれたものと変わりません。ただ急速に軍備を拡張していたアメリカ軍はドイツ軍よりも早く大規模にそれを達成しています。

 北アフリカに上陸した時点で戦車師団の師団砲兵はM3ハーフトラックに105mm榴弾砲を応急的に搭載したT19 105mmHMC(榴弾砲車)が配備され、戦車部隊の火力支援という点ではほぼ合格点にありました。応急兵器とはいえT19は1942年1月から4月にかけて324輌が生産されています。ドイツ軍の105mm自走砲ヴェスペの終戦までの生産数の約半分です。このあとすぐに本格的な105mm自走砲としてM3中戦車の車台を利用したM7 105m HMCが生産に入り、シシリー島戦から実戦に投入されています。1944年になるとM4A3中戦車をベースとしたM7B1が加わり、総生産数は4140輌です。

 これだけの数を生産すると戦車師団の砲兵としてだけでなく一般の師団砲兵にも配備が開始され62個大隊(うち師団砲兵に48個大隊、軍団直轄砲兵として14個大隊)がヨーロッパ戦線に、3個大隊が太平洋戦線に送られています。

 ただしアメリカ軍の自走砲はこれっきりです。アメリカ軍砲兵は自走砲をほぼM7だけで戦い通したのです。他にM8 75mmHMCがありましたが、これは事実上の支援戦車で戦車兵が搭乗し、M7シリーズも戦車師団の支援戦車中隊に105mm砲装備のM4中戦車配備までの代用として送られたものには戦車兵が搭乗する代用突撃砲として直接支援任務に投入されています。

 M7は105mm自走砲として平凡な車輌ですが良い点があります。それは車台がM3中戦車またはM4中戦車ベースで少し大きめだったことです。大きめの車台に控えめな口径の大砲を積むことは第二次世界大戦中に自走砲が成功する鍵のようなものです。このためにM7は車内に比較的多くの砲弾を搭載することができ、より長時間戦うことができたからです。ドイツ軍の三号突撃砲が重宝されたのと同じ理由です。

 これに対してより大口径のカノン砲である155mmGPCを搭載したM12 155mmGMCは1942年に生産開始されたにもかかわらず合計100輌の限定生産に留められ、実戦投入も控えられてしまいます。専用の弾薬補給車輌M30、100輌とセットで生産されたにもかかわらず、このような扱いである理由の一つが砲弾の補給です。105mmクラスの砲ならば数十発を搭載できても155mmクラスのカノン砲弾では数分の一しか搭載できません。一日当りの砲弾消費量は大規模な火力戦が戦われ始めた第一次世界大戦中にすでに200発から300発の水準に跳ね上がっていましたから、自走化したからといって大規模な火力戦を実施するためにはその後方に砲弾を満載した機動性とクロスカントリー能力に劣る鈍重な輸送トラックの列が必要となります。

 こうした問題に最初に気づいたのはソ連軍で、車内にたった20発しか搭載できない152mm砲弾を経済的に使用するため、直接射撃を実施する重突撃砲としてISU-152を完成させているのです。突破前進に追随する自走砲には砲弾の補給が難しく、砲弾が補給困難な場合、直接射撃は漫然とした間接射撃よりも経済的かつ有効であることをソ連軍は示したのですが、奇しくも一般的スタイルの155mm自走砲であるM12 155mmGMCの実戦投入もその開発目的だった遠距離間接射撃ではなく、戦争末期のジークフリート線突破のために大威力の155mmカノン砲で直接射撃を行う突撃砲としての任務でした。しかもこの任務での評価は極めて高く、アメリカ軍は再びM40 155mmGMC、M43 8インチHMCといった大口径自走砲を1945年になってから生産し始めますが、それは戦争には間に合っていません。

 結局のところ、第二次世界大戦式の自走砲はそれだけで本格的な火力戦を実施するには無理のある存在でした。突破前進する戦車部隊の火力支援をある程度の規模で実施するには便利でも、砲弾備蓄の山を築いてから戦いを始める必要のある大規模火力戦を戦おうとすると、自走砲の機動力は無用の長物だったのです。野砲を自走化して火力戦を戦うならばそれ以上に機動力のある補給体勢を構築しなければならないという当然の事実に直面して自走砲の第一世代は一旦、発達を止めてしまいます。一般の歩兵師団がM7自走砲よりも新型の牽引砲を歓迎する傾向があったのもこのためで、装軌車輌としての機動力ではなく、大量の砲弾と引き換えに歩兵の命を守ってくれる野砲部隊の火力発揮を最も頼りにしていた歩兵師団にとって、どうせ同じような運用をするのであれば機械的に単純な牽引砲で十分だったからです。

アメリカ軍の自走砲生産

1942年 

T19 105mmHMC 324輌

M7 105mmHMC 2028輌

M12 155mmGMC 60輌

合計       2412輌

1943年

M7 105mmHMC 786輌

M12 155mmGMC 40輌

合計        826輌

1944年

M7 105mmHMC  500輌

M7B1 105mmHMC 664輌

合計        1164輌

1945年

M7 105mmHMC  176輌

M7B1 105mmHMC 162輌

M37 105mmHMC  150輌

M41 155mmHMC   85輌

M40 155mmGMC  394輌

M43 8インチHMC  48輌

合計         1015輌

12月 14, 2010 · BUN · 4 Comments
Posted in: 砲兵の仕事, 陸戦

4 Responses

  1. ヒロじー - 12月 24, 2010

    M7の生産数のピークが1942年というところに、実勢経験を経たアメリカ軍の通常形式(?)の自走砲への評価が垣間見える感じですね。
    ところで自走砲の第一世代は「一旦」発達を止めてしまう…ということは、自走砲の発達が再開されるに至った切実な理由が戦後生じてきたのでしょうか。

  2. RS125 - 12月 28, 2010

    我が日本陸軍が、砲兵の機械化と自走砲の装備を進めても、支援する段列やら輜重連隊への装軌車両の装備必要と言うとても実現不可能そうな現実が待っていることを思い知らされました。

  3. BUN - 12月 31, 2010

    ヒロじーさん

    M7の生産が一息ついてしまうのは、戦車師団用という当初の需要を満たしてしまうからです。
    自走砲を再開発させるに足る切迫した理由?ありますとも。

    RS125さん

    海外からの日本軍に対する批判には、装備や戦術が旧式であったとの内容よりも、日本軍がドイツ式の機動戦思想にあまりに忠実かつその実践に熱心で、そこから抜け出して火力主義に転換できなかったことを指摘するものがあります。

  4. 栗田 - 12月 31, 2010

    一年間興味深く読ませていただいていました。

    欧州においては日本よりもよほど、『戦争』と聞くと『大砲』や『砲撃』を連想するのが一般的かもなあ と思ったりしました。へんな感想ですみません。

    来年も、楽しみにしています。
    ありがとうございました。

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