砲兵の仕事 20 (ドイツ軍砲兵火力の分散)

機動力と火力という、相反する要素のどちらを優先するか、あるいはどうやってバランスさせるか、という課題は第二次世界大戦中の各国陸軍にとって悩みの種でした。イギリス軍は第一次世界大戦方式の火力戦の復活を優先して組織改革を行いましたが、その間、ドイツ軍もただ漫然と時を過ごしていた訳ではありません。

 ドイツ軍は砲兵火力を不必要と考えていたのではなく、第一次世界大戦の1918年春季攻勢で敵防衛線の無力化に成功した記憶も残っています。20年前に生まれた空陸一体の突破作戦という概念がより精密に再現されたのが電撃戦ですが、それと同時に砲兵の火力集中を行うための基礎的な組織も細々とですが維持されていたのです。イギリス軍と異なり、軍直轄の野戦重砲兵や師団砲兵を集中指揮するための砲兵指揮官は開戦前から配置されていましたし、砲兵火力集中の訓練も実施されています。この点では開戦前のイギリス軍よりもはるかに良い状態を保っていたとも言える程です。

 けれども開戦前までの演習で実施された砲兵の集中規模はせいぜい100門程度のものでしかなく、第一次世界大戦とは比べようも無い規模です。イギリス軍より良好とは言うものの本格的に火力主義を復活させるには野砲そのものの生産も、砲弾の生産もまったく間に合いません。緒戦の火力優位は圧倒的なものではなく、連合軍よりは良好といった程度でしかありません。このためにドイツ軍砲兵は電撃戦の表舞台に立つことができず、補助的存在に甘んじることになります。

 それでも敵の抵抗が弱く、しかも良好な道路網が発達したフランスの戦場では、急進撃する戦車部隊に牽引式の野砲兵はよく追随してあまり破綻を見せません。ドイツ軍全体の機械化率はひいき目に見ても20%程度でしかありませんから、大砲を馬でガラガラ牽いていてもひどく置き去りにされることは無く、ドイツ機甲部隊とはいえども長距離の進軍速度はナポレオン時代と大した差がないのです。

 もともと限られたリソースを戦車と取り合いになる運命にあった自走砲はただでさえその生産を抑制されていましたが、緒戦で明らかな破綻が無かったことで砲兵の自走化はさらに停滞してしまいます。突撃砲という優れた発想が早くからあったにもかかわらず、歩兵直協用の直接照準射撃を行う重装甲自走砲の配備はなかなか進みません。

 こうした状況で1941年春を迎えたドイツ軍は来るべき対ソ連戦というかつてない大規模機動作戦のために砲兵の組織改革を実施します。ポーランドやフランスでは破綻しなかったものの、比べようもなく広大で、しかも道路事情が悪い戦場で長距離の急進撃を必要とする対ソ戦では、今度こそ牽引式の砲兵は使い物にならないだろう、という予測によってドイツ軍はかなり極端な編制改革を実行に移します。

 それは軍団砲兵の事実上の解体です。ドイツ軍は火力集中のための予備として存在していた野戦重砲を師団レベルに分散配置し、師団砲兵もまたより下位の組織に分配してしまいます。
 ドイツ軍は中隊規模から何らかの専用砲兵を持つようになります。これは下級指揮官が上部組織に対して命令系統を辿って砲兵支援を要求しなくとも、小規模ではあってもすぐ使える便利な砲兵を自分専用に持たされたということです。その代わりに大規模火力集中の基盤である軍団砲兵は骨抜きとなり、大規模火力集中という概念は消滅してしまいます。

 機動力とレスポンス向上のための火力分散は徹底されましたが、師団レベルには砲兵指揮官(artillerie kommandeur=ARKO)が置かれず、本部機能を欠いているために分散した砲兵の再集中はあまり考慮されていません。このようにかなり思い切った改革ですが、それにはドイツ軍の抱いていた大規模かつ広範囲な機動作戦にあたっての危惧があります。

 砲兵火力をここまで分散した背景に存在したものは、火力集中の原則に従ってより上位の組織に砲兵をまとめたままで広大な戦場を駆け巡る戦いを始めると、十中八九、砲兵は必要とされる戦場の必要な局面に出遅れてしまい、軽野砲3個大隊、中口径野砲1個大隊といった規模の師団砲兵は東部戦線の機動戦に対応できない、という予測です。たとえ小規模であっても局所に即応できる火力を準備することの方が、大規模な火力集中よりも有益であるという考え方が電撃戦の根底にあることが窺えます。さらに言えば、大規模火力集中を準備するような時間が、電撃戦には許されていないということでもあります。時間を掛けて火力主義を実践しているとドイツ軍が最も重要視していたショック効果が薄れ、敵軍の指揮統制を麻痺させ、無力化することが難しくなり、やがて兵力と物量で勝る敵軍の反撃に押し返されてしまうだろう、という危機感がこの改革を推し進めたとも言えます。

そして、そこまで極端に機動戦に特化した軍隊が、時間と戦いながらずっと恐れてきた敵の火力主義による反撃に出会ったときにどうなるかを示したのがエルアラメインの戦いであり、東部戦線の激戦でした。

8月 19, 2010 · BUN · 5 Comments
Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 陸戦

5 Responses

  1. 虎山 - 8月 23, 2010

     素人考えですが、敵に「火力集中」の時間を与えず、敵戦線を突破できるのであれば、十分に成立する方法ではないのでしょうか。
     6時間後に大規模な火力支援があるよりも、小規模でも30分以内の確実な火力支援の方が有り難いでしょうし。
     ただ、それを実現するには常に移動を続けなければなりませんし、敵が「火力集中を終えていない」という大前提が必要になる訳ですよね。

     「常に勝ち続けていなければ、次の瞬間には負けている」というあたり、胸が痛みます。
     そもそも、それが可能な兵站を用意できるつもりだったのだろうか、という疑問もありますが。

  2. ムチのムチ - 8月 23, 2010

    > そこまで極端に機動戦に特化した軍隊が、時間と戦いながらずっと恐れてきた敵の火力主義による反撃

    と、いうことは、当時のドイツ軍の上層部には、
    「半年、一年だったら暴れてみせるが、それ以上は…」といったような危惧が、
    砲兵装備・編成の面でもあった、ということなのですね?

  3. BUN - 8月 24, 2010

    虎山さん ムチのムチさん

    おっしゃる通りです。
    第二次世界大戦が短期決戦に終わらなかったことで短期決戦構想に対して必要以上に否定的な評価がありますが、現実には第一次世界大戦を再現したような長期の消耗戦など誰一人望んでいなかった事を忘れてはいけませんよね。

  4. ムチのムチ - 9月 7, 2010

    以下のようなプラモデルが出るそうですが…
    http://www.1999.co.jp/10125804

    あのマンシュタインが関係していることで有名なセヴァストポリの戦い、
    最初のセヴァストポリへの攻撃は、クリミア半島東方のソ連軍上陸等への対応で実行できなかった、といったイメージがあります。

    が、そもそも火力の面から見て、成功する攻撃はできたのか疑問に思えてきました。

     ただ、次の年の攻撃においてドイツ軍がおこなった火力集中は、当時のドイツ軍としてはきわめて例外的なものだったのですね。
    第11軍が攻略後に転用されたのは、この、当時のドイツ軍においては例外的な、火力発揮のための組織をもっていた関係もあったのでしょうか?

  5. BUN - 9月 8, 2010

    ムチのムチさん

    そろそろ話が東部戦線に移りつつあります。
    たぶん、少し触れると思います。

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