砲兵の仕事 18 (エルアラメイン戦が示した原則)
1930年代に流行した機動戦理論が意識的に、あるいは無意識に火力戦の展開を避けたことで、その最先端を行くドイツ軍の誇る電撃戦は冷静で準備の整った敵に出会うとたちまち頓挫してしまう宿命にありました。戦車の機動を止めるには強力な対戦車砲群が必要ですが、相手がそれを用意した時点で戦車は打つ手が無くなります。そのために敵の対戦車火力を制圧するのは砲兵の仕事になります。
そして火力集中によって敵の機動戦を受け止めて撃破することができたら、その次は友軍の機動突破作戦を展開しなければなりません。今度は敵の対戦車砲、野砲を対砲兵戦で撃ち破ることが砲兵の仕事になります。辛抱強く読んで来られた方にはもはや当たり前のように感じられることでしょうけれども、これは1918年の戦いを経験した軍隊にとっては確かに当たり前の話でした。ただ、戦後の軍縮による機材の不足と世界大戦の悲惨な記憶から火力戦の再現を諦め、あるいは怖れた結果、一度発見された陸戦の原則が忘れられていたに過ぎません。
ここで、「失われた重要な原則を取り戻したイギリス軍がそれに気づかないドイツ軍の機動戦を撃ち破った戦いがエルアラメインの戦いだった」と言い切ることができると物語としては大変面白いのですが、第一次世界大戦でもそうであったように、一方が獲得した新しい認識は、もう一方も、多少の遅れはあろうとも気がついてしまうのが現実です。
ドイツ軍がどのあたりで自らの機動戦用部隊の火力不足を深刻に認識し始めたのかを探ると、それは1942年初めから半ばにかけてのようです。それまで細々と限定的に発注されていた自走砲の開発命令が次々に発せられるのがこの時期だからです。イギリス軍が2年かけて火力戦に復帰したように、ドイツ軍もまた火力戦に復帰しようとその装備とドクトリンの更新に注力し始めて、やがてある程度の成功を収めるのですが、結局のところ、後手に回ったドイツ軍は二度と優位に立てません。それまで代用砲兵として利用されていた空軍も連合軍に押されて衰え、ドイツ軍の機動戦を支える火力は、それが陸からであれ、空からであれ、どちらにしても不足し始めて、終戦まで二度とまともな機動突破作戦を実施できなくなります。
エルアラメインは両軍ともに火力戦への転換を意識しながら、それが間に合わないドイツ軍の焦りと、ようやく準備を整えてその成果を確認しようとするイギリス軍とのコントラストが際立つ戦場となります。そんな視点から英独両軍による火力対決の場としてエルアラメインを眺めてみたいと思います。
この戦いでドイツアフリカ軍団の敗因として、地形的な制約が挙げられることがあります。機動部隊の迂回を許さない地形がアフリカ軍団の機動作戦を妨げたというもので「戦車部隊の運用に適さない地形に防衛線を敷かれたので膠着状態に陥るのは仕方が無かった」といった評価です。これは別に間違いという訳ではありませんが、第一次世界大戦の常識で眺めると実に不思議な現象です。そもそも戦車というものはこうした陣地線を突破するために生まれた兵器なのですから、「少しばかり」強力な歩兵陣地があった位で停止しては話になりません。そもそも陣地線を突破できない戦車など何のためにあるのでしょう。戦車という兵器はいつからそんな「役立たず」に成り果てたのでしょうか。あるいは戦場に登場した当初から、戦車とは色々と手当てしなければ「役立たず」な兵器だったのでしょうか。
アフリカ軍団の精鋭部隊がエルアラメインを突破できなかった最大の理由は言うまでもなく火力の欠落です。補給線が伸びきったとか、ロンメルが兵站を無視したとか、色々な説明がなされますが、どんなに補給が順調でも火力に劣れば陣地線は突破できないのです。アフリカ軍団の戦車は野戦重砲の間接射撃で進撃を阻まれ、果敢に前進して急速展開する対戦車砲で撃破されてしまいます。そして機動戦専門部隊であるアフリカ軍団にはそれを防ぐ手立てがありません。ドイツ軍は第一次世界大戦でも砲兵火力でほぼ4対1の劣勢にありましたが、エルアラメインの戦場ではほぼ10対1にまでその差が広がっています。
もちろんロンメルもアフリカ軍団も愚かではありませんから、あらん限りの砲兵火力をエルアラメインに集中します。その数は約250門。北アフリカ戦の前半であれば見事な「火力集中」です。砂漠の陣地線など、これだけの火力集中が実現すれば突破できるはずですし、消耗し疲れ果ててはいてもアフリカのドイツ空軍はまだまだ健在です。「突破できる」という予想は当時のドイツ軍の視点からは十分に現実的です。野砲、対戦車砲ともに火力の集中が実現しているのですから、その支援さえあれば、たとえ秋を迎えて旗色が悪くなってからでもドイツ軍の対戦車砲陣地と戦車部隊による機動防御でイギリス軍を「後手から撃つ」ことさえ夢ではないのです。
ところが10月23日に開始されたイギリス軍の反撃作戦はドイツ軍の予想を遥かに上回る規模の火力に支えられていました。2000門を超える野砲と野戦重砲は150万発の砲弾をドイツ軍陣地に撃ち込みます。第一次世界大戦以来の猛砲撃が行われた訳ですが、第一次世界大戦と異なるのは、砲撃の精度が極めて高くなっていたことです。航空優勢を手に入れたイギリス軍の綿密な写真偵察とドイツ軍野砲の音響測定、閃光測定の結果、ドイツ軍の砲兵陣地は正確に照準され、自在に行われる航空砲兵観測と無線電話ネットワークの充実によって柔軟性を増した砲兵戦指揮統制システムの下、1918年式の対砲兵戦がまるで儀式のように秩序立って実施されています。
エルアラメインはイギリス軍にとってまさに第一次世界大戦の再現といえる大規模砲兵戦が展開された戦いです。歩兵陣地制圧を目的とした準備砲撃は1000門の25ポンド砲と中口径砲で12日間にわたって実施され、その後に対砲兵戦が繰り広げられます。こうした砲撃は単純に敵陣の徹底的破壊をテーマとした1917年型の砲兵戦ではなく、大規模砲兵戦が熟し切った1918年型の「敵の無力化」をめざした精緻なものだったことが重要です。航空優勢を取り戻しつつあったイギリス軍は「近代砲兵戦の基礎」である航空の力を借りてドイツ軍の野砲200門、中口径砲40門、重砲14門の配置を特定し、四半世紀前の戦いよりもはるかに短時間の圧倒的な射撃で沈黙させ、続いて砂漠の戦いで防御の主役だった対戦車砲陣地を粉砕したことで決定的な勝利を得ます。ドイツ軍側も対戦車砲を根こそぎ撃破されたことが最大の敗因と述べていますが、まるで1918年の夏が再現されたような戦い振りです。
モントゴメリーという将軍の強烈な個性が与える印象からエルアラメインの戦闘は単調な物量作戦のように捉えられがちですが、よく考えてみれば相対的に小兵力だったとはいえ、エルアラメイン戦後期に出現したドイツ軍防御陣地は地雷と砲兵に守られ、機動防御用の戦車兵力もある立派な堅陣です。こうした陣地はドイツ流の電撃戦では絶対に貫けないもので、事実、砲兵火力で圧倒しながらもイギリス軍戦車は対戦車戦闘で大きな損害を受けています。戦車が突破したくらいでは揺るぎもしない「アフリカ軍団」の防御陣を蹂躙して友軍に機動の自由を与えるために絶対的な火力優位は必須だったといえます。そしてドイツ軍もイギリス軍がエルアラメインで示した火力戦の原則を進んで採り入れようと努力を続けることになります。
7月 28, 2010
Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 陸戦

7 Responses
ご無沙汰しております。
「砂漠の戦争(アラン・ムーアヘッド著)」を読み直しておりました。
> 戦車部隊の運用に適さない地形に防衛線を敷かれたので膠着状態に陥るのは仕方が無かった
> 補給線が伸びきったとか、ロンメルが兵站を無視したとか、色々な説明がなされますが
私もそのように信じておりましたので、今回のお話はまさしく「目から鱗が落ちる」ような驚きです。
エルアラメインの戦線で、イギリス軍が用意した砲兵火力は敵の10倍もあったのですか。
これも初めて知りました。
ドイツ軍が敗退して当然のことだったのですね。
今回も、素晴らしい驚きを有難うございます。
自走砲の増加が1942年からですと、北アフリカには間に合わなかったのですね。
ドイツ軍の砲兵部隊は完全に自動車化されず馬を使っていたために北アフリカには歩兵師団を送らなかったのでしょうか。
おそらく完全に自動車化されていたはずのアフリカ軍団における砲兵の運用はどうだたのでしょうか。難しそうです。ゴムタイヤとかヨーロッパ大陸よりも消耗が激しそうですし。
ロンメルは第一次大戦では、初期に少しだけ西部戦線にいて、ほとんどオーストリアやイタリアで活躍していたと思います。火力の怖さや、砲兵を運用するための空軍力は、あまり認識していなかったのかもしれません。
エルアラメライン以降、連合軍の空軍力の強さを認めてノルマンディーでは装甲師団を海岸線近くに配備する方針を主張した、とされていますが、艦砲射撃などの砲兵力についてはどのように認識していたのでしょうか。
いつも、ありがとうございます。
虎山さん
両軍の火力戦という観点からエルアラメインを眺めると、ロンメルが必死に増援を求めた理由も理解できるような気がしますね。
uuchanさん
自走砲とはヴェスペとフンメルのことですが、105ミリ榴弾砲と150ミリ榴弾砲をどうやって戦車に追いつかせるか、という課題への回答です。でも、両車の総生産数は約700輌ずつ(弾薬補給車は除く)。
少ないですよね。
やはり火力戦は組織から作らないと駄目なんです。
それが1943年からの話となる予定です。
いつも楽しく拝見しております。
>自走砲の増産開始が1942年初めから半ばにかけて
よく第二次大戦の兵器開発史を見ていると「役に立たなくなった2号戦車車体を、全て自走砲に改造するようヒトラーが命じた」などと書かれている事が多いですが、ヒトラー自身も火力戦への回帰を自覚していたということなのでしょうか。確かに兵器行政では結構まともな判断をしている人ですが……
anfisaさん
戦車に置き去りにされない野砲兵を欲しがったのはヒトラーだけではありません。1941年の東部戦線を経験した戦車将校は誰もが自走砲の必要性を感じた事でしょう。
ヴェスぺやフンメルは廃物利用ではないんです。
「ドイツ軍名将列伝―鉄十字の将官300人の肖像」
(学研M文庫)をみて、
第二次大戦時のドイツ軍は、
砲兵を経験した将軍の割合が
かなり高いのでは、という印象を持った
ことがあります。
(他国との比較がないと意味がない話かも
知れませんが…)
さて、それはともかく。
当時のドイツは、英米の戦略爆撃対策として
大量の高射砲を生産していますよね。
ひょっとして、
大砲生産の為のリソース中の相当部分が、
この高射砲に取られてしまっていた
のではないでしょうか?
とすると、
これも戦略爆撃の大きな効果の一つ、
ということになるのでしょうが…
ムチのムチさん
御賢察の通りです。
高射砲と高射砲弾の生産は第二の東部戦線のようなものです。
そこに思い至るとは恐れ入りました。
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