砲兵の仕事 15 (火力戦ドクトリンの復活)
お待ちかね、かどうかはわかりませんが、ようやく第二次世界大戦にまでたどり着きました。1939年9月1日にドイツ軍はポーランドに侵攻し、イギリス軍とフランス軍は再び連合軍としてドイツにとっての西部戦線を構成します。けれども宣戦布告から8ヶ月もの間、本格的な陸戦は発生しません。いわゆる「フォウニー ウォー」の期間です。この期間に連合軍が何らかの攻勢に出ていれば、という話もありますが、ここでは8ヶ月の間にイギリス遠征軍が何をしていたかに注目したいと思います。
1940年5月になってベルギーに進出した連合軍主力の裏を掻いてアルデンヌ高原を抜けるドイツ軍の突破作戦が成功したためにまったく注目されませんが、イギリス遠征軍の本質はあくまでも1930年代の理想を追って編成された機動戦部隊で、そのように訓練された軍隊でした。1940年5月の戦闘はベルギーを舞台にした両軍機械化部隊同士の機動戦になるはずだったのです。
ところが現実には、イギリス遠征軍の戦術はまったくの静的防御で機動戦の匂いすらしません。フランス軍に至ってはまったくなす術もなく潰走しています。機動戦用の部隊がどうして機動戦を戦わなかったのか。それには大きな理由があります。イギリス軍は1939年9月にポーランドに侵入したドイツ軍の戦いをよく観察していましたが、その機動突破作戦を分析した結果として、やがてフランスに向けられるだろうドイツ軍の攻勢を受け止めて撃破するには、砲兵の大規模集中による火力戦で立ち向かうしかない、と結論したからです。
機動戦から火力戦への大幅なドクトリンチェンジの痕跡は1939年12月の国軍砲兵訓練規約の中にある「我々が考慮しなければならない戦闘は機動戦ではなく、より重厚な物量戦である」との、まるで1930年代の熱狂的機動戦ブームが無かったかのような言葉からも確認することができます。1939年末までにイギリス遠征軍のドクトリンは機動戦から火力戦へと転換しているのです。機動戦用部隊の要となるはずの機甲師団の大陸派遣が1940年5月まで遅れ、さらに附属の自動車化歩兵部隊がノルウェーに分派されたのはイギリス軍の機動戦への無理解からではなく、機動戦から静的防御へのドクトリン転換があった以上、あえて訓練不足の機甲師団を送り出す必要が無かったからです。
ではなぜ、イギリス軍は機動戦を捨ててしまったのでしょう。
1939年9月のポーランド侵攻作戦は空陸一体の機動突破作戦として高い完成度を示した戦いでした。砲兵火力を欠いてはいたものの、それを充実した近接航空支援体制と迫撃砲による局所火力集中で補ったドイツ軍の電撃戦ドクトリンに対抗するには、まだ航空軍備の拡充途中だったイギリス、フランス両空軍の爆撃機兵力では荷が重く、地上軍に十分な航空支援を与えることができません。連合軍がドイツ軍のような機動戦を戦うには空軍の準備が整っていないのです。
機動戦について行けない野戦砲兵の代用が近接航空支援だったのですから、連合軍にとってみれば、空軍が弱体であればドイツ軍が欠いている野戦砲兵の火力集中を利用することが最良の策となります。敵に欠けているもので友軍の欠点を補うという発想です。機動戦から静的防御への転換にはこうした背景があります。
「東部戦線における機動戦の実績」「予測される西部戦線での空陸一体の機動突破作戦」「友軍の短所は近接航空支援、そして長所は砲兵のリソース」こうした要素を並べると、なんとなく何処かで見たような気持ちになってきます。これは1918年のドイツ軍春季攻勢を待ち受ける第一次世界大戦時の連合軍そのものです。電撃戦の源流がそこにあったように、大幅なドクトリン転換には、まだ遠い昔ではない前大戦の記憶もあったことでしょう。
強力な砲兵火力の集中を実現できるならば、ドイツ軍の攻勢は1918年の春にそうだったようにパリに届かないまま阻止されるはずです。けれども今の連合軍には物量戦に明け暮れた1917年ほどの蓄積がありません。イギリス軍の地方連隊はまだ前大戦中の装備と殆ど変わらない18ポンド砲その他の旧式砲でしたし、大規模な砲兵戦に必要な軍団レベル以上の砲兵指揮統制組織も再建されていません。砲兵火力を近距離目標から縦深制圧へと縦横無尽に展開するために必須の無線電話装備も普及していません。新鋭の25ポンド砲には対戦車用の砲弾も用意されていませんし、2ポンド対戦車砲も不足して重点地区でも180メートルに1門の密度でしか配備できません。ドイツ陸軍の対戦車戦闘ドクトリンが推奨する密度の数分の一です。
こうした何もかもが不足した状態を大急ぎで補強する悪戦苦闘が8ヶ月間の「フォウニー ウォー」の正体です。ドイツ軍もポーランドで使い果たした砲弾備蓄の回復と戦果に見合った損害を出してしまった戦車部隊の回復に時間を必要としていましたが、この競争は連合軍の負けでした。機動戦を打ち砕く可能性を秘めた大規模火力戦の再現は間に合わなかったのです。
1940年5月13日のセダン前面でフランス軍は、意表を衝いてミューズ川を渡河したドイツ軍はせめて重火器とその弾薬の揚陸を終えるまでは動かない、と願うように判断していましたが、フランス軍の砲兵集中が行われる前に戦車部隊と迫撃砲を伴った歩兵だけが航空支援を頼りに進撃を開始したことで戦争の行方は決定してしまいました。
6月 22, 2010
Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 陸戦

4 Responses
こんばんは、いつも楽しく拝読させて頂いてます。
ドイツ軍のイメージとしては航空機と砲撃の支援の下戦車部隊が進撃するのを思い浮かべますが、
あの砲撃は重砲や自走砲ではなく迫撃砲だったんですね。
イギリス軍やフランス軍は戦車への理解が無かった為
先進的なドイツ軍に敗れた、と見かけたりしますが
もしも火力戦の再現が間に合っていたなら少なからず影響があったのではないか、と想像してしまいます。
しかしフランス軍は伝令にオートバイを利用し伝達に48時間かかった、とあるサイトで見たのですが
これは果たして本当なのでしょうか・・・。
bellkaさん
英仏の再軍備はとにかく航空を何とかしようとそれを最優先に進めています。ノモンハン事件後の日本陸軍のように、最大の脅威はドイツの空軍力で、陸戦装備の充実はその後から続いています。
ですからよく引き合いに出される信じられない程の拙劣な体制はほとんど事実です。
それでも、もしフランス空軍の再装備ペースが2、3ヶ月早ければセダン突破は確実に遅れたことでしょうし、そうであれば、第一次世界大戦式の火力戦に巻き込まれたドイツ戦車部隊は突破に必要な火力を欠いて前進できなかったでしょう。1940年5月中旬の戦局はそれほど微妙なものでした。
いつも更新を楽しみにしております。
このブログを見るようになって教えられたことは幾つもありますが、
その最大のものは「負けたからそうなったこと」と
「そうだったから負けたこと」の区別をつけることだったように思えます。
こうして書いてしまえば、なんということはない事なんですが…
単なる趣味や知識に収まらず、人生の道標にもなっております。
(大げさでしょうか…?)
スキュラさん
ありがとうございます。
人生の道標はちょっと大袈裟です。
でもあれこれと調べてみるとしみじみとしてしまう部分は確かにありますね。
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