砲兵の仕事 12 (忌み嫌われる砲兵)
第一次世界大戦で歩兵の補助兵器から自立した独自の存在へと成長、変貌した野戦砲兵は、戦争の最終段階で人名の損失を最小限に抑えるという誰にも否定できない画期的な業績を残しています。最後まで十分に使いこなせなかった戦車や、役立たずのド級戦艦とは比べ物にならないほど重要な役割を果たした砲兵はその実績を背景に陸軍内で不動の地位を築いた、と書きたいところですが、戦後の砲兵は称賛されるどころか、まったくの「嫌われもの」でした。
陸戦での大殺戮は参戦国民にとって二度と思い出したくない悪夢のようなものでしたし、軍人達にとっても想像をはるかに超えた歩兵の大損害はあまりにも苦い経験でした。そして砲兵はその殺戮の象徴として忌み嫌われる存在だったのです。こうした大規模火力戦に対する嫌悪感は単なる雰囲気にとどまらず、砲兵戦術を第二次世界大戦前半まで縛り続けることになります。火力戦主義は戦争を再び陰惨な大殺戮合戦へと向かわせるのではないか、という危惧は戦間期の砲兵戦術停滞に無視できない影響を与えています。砲兵の大規模集中による火力戦は陸戦の理想とは程遠い存在として、極端に言えば毒ガスと同じように見られていたということです。
このように砲兵に対して世間一般の目が冷たいという環境に加えて、予算の縮小が追い討ちをかけます。単純に大砲を新しく造るお金が下りて来ないというだけではなく、近代砲兵が最も頼りにしている航空の縮小が大きな痛手でした。戦後の予算縮小はイギリス空軍に99個あった第一線飛行隊を22個にまで減らしてしまいますが、それは野戦砲兵の火力を担う野戦重砲から航空観測という「眼」を奪うことにつながります。間接射撃ができない野戦重砲など、足手まといの重装備でしかありません。
そうでなくとも航空部隊は空軍として独立するか、陸軍組織内にあっても独自の存在へと成長しつつあったので、地上兵力との連携は希薄になるばかりでした。空軍は地上軍の支援よりも縮小された兵力を用いてより独自性のある戦略爆撃のような作戦に最適化することに魅力を感じていたからです。
さらに決定的だったのは、世界大戦後に各国に蔓延した戦車を中心とした装甲機動戦思想です。理想は全砲兵の自走化でしたが、それが望めない以上、砲兵は急進撃に追従できるのか、という古い問題が野戦砲兵の前に立ち塞がります。そして戦争中、突破兵器として可能性を示した戦車の最大の敵だった軽野砲による直接射撃は戦後の砲兵に与えられた最大の任務と考えられるようになります。
すでに1918年後半には大規模な戦車攻撃を何度も経験していたドイツ陸軍では「砲兵の最大の任務は敵戦車の撃破であり、その他の任務は付随的なものである」という認識が生まれていましたが、それは突破前進する敵戦車を迎え撃つために、まるで19世紀のような近距離直接射撃を行うことを意味しています。そして友軍の戦車に対しては共に前進して敵の対戦車射撃を制圧することを求められ、野戦砲兵の装備は戦争中の重砲中心主義から世界大戦前のような軽砲中心にシフトします。
日本陸軍の新型野砲である九〇式野砲が75mmという小さな口径を選んだのもこうした理由です。そんな九〇式野砲でも重い、使いにくい、という評価から射程を短縮して軽量化した九五式野砲が登場し、威力と射程を犠牲にしたことを理由に「肉迫攻撃偏重」の不健全な改良だとして日本の野砲開発史の汚点であるかのように批判されていますが、野砲に対して「火力集中による間接射撃よりも分散機動による直接射撃」「自走化はできないが、とにかく身軽になれ、敏捷になれ」と要求していた当時の機動戦思想からみれば当たり前の発達なのです。イギリス軍の新野砲が25ポンド砲という中途半端なものである理由も同じです。
砲兵集中による大規模火力戦という「大殺戮を伴う汚い手段」に頼らずとも装甲機動戦という新しい戦争のやり方で「より早く、きれいに勝つ」ことができるという願望に近い観測が野戦砲兵とその支援組織を滅ぼしてしまったということですが、戦車の発達は戦争を物量の戦いから智謀と決断による短期決戦へと回帰させるものと考えられ、自信に満ちた陸戦指揮官達にとってより好ましい傾向でもありました。
戦車発達史的な視点からは、戦間期の戦車部隊は旧弊な思想の上層部に理解されず、予算も運用も制限されていたと即断されがちですが、陸軍でトップクラスの大組織であり、旧思想の代表格であるはずの野戦砲兵の任務が対戦車攻撃と友軍戦車支援だったのですから、それは公平な見解とはいえません。戦間期の軍備計画はどんな兵科にとっても物足りないものでしたし、その中でも航空と戦車には優先して予算がつけられていた(軍縮時代の日本陸軍でも同じですね)のです。
そして対戦車戦闘への強い要求はより機動性のあるミニチュア野砲を生み出します。それが対戦車砲です。イギリス軍の2ポンド砲や各国の37mmクラスの速射砲は野砲の小型化という概念で発達したものです。本来ならば75mmクラスの自走砲であるべき対戦車砲は予算圧縮と機動戦思想の影響で汎用性の無い牽引式小型砲として誕生してしまいます。1935年の再軍備でドイツ軍が高射砲を対戦車戦闘に流用する方針を確立したのは何ともオーバースペックに見えますが、元来、対戦車戦闘はこの程度の大砲で実施するものでした。むしろ貧弱なのは一般的な対戦車砲の方で、低威力で短射程の小型砲で敵戦車と肉迫対決するという無理を通したそのツケは第二次世界大戦で支払われます。
戦車の発達と「装甲機動戦に昔ながらの砲兵支援は不要」という極端な見解が世界中の陸軍から砲兵集中による大規模火力戦、なかでも対砲兵戦能力を奪い去ったことは野戦砲兵にとっては痛恨の出来事ですが、苦しく陰惨な戦いだった第一次世界大戦の記憶が新しい時代には無理のない話なのかもしれません。けれども1918年に多くの将兵の命を救った大規模火力戦の放棄は、そのまま次の戦争での苦戦に結びついていたのです。
6月 7, 2010
Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 第一次世界大戦, 陸戦

11 Responses
SU-5-1、SU-5-2、SU-5-3を作っていたソビエト・ロシアも同様でしょうか?
ムチのムチさん
これは鋭いですね。
ソ連陸軍は面白い存在です。
西欧とはちょっと違った道を進んでいます。
第二次世界大戦の主要人物はこの時大体20歳後半から40位で立場は違えど戦争を経験しているわけで、皆が「次はあんな風にはなるまい・やるまい」と考えた結果がそれぞれ色んなルートを辿って行く、その土台部分がとても良く理解できる記事で毎回楽しみです。
それにしても軍事に限らず、第二次世界大戦を理解には第一次世界大戦が何を、政治的、社会的、思想的にもたらしたのか理解する必要の強さが改めて思い起こされます。
歩兵の大量喪失に耐えかねて砲兵重視にならざるを得なくなったような気がしましたが、当時の認識としては火力で戦争をすると死傷者が増えすぎる。ってことなんでしょうか?
( ̄ヘ ̄;)ウーン
戦争のアートを復活させる試みのなかで、重砲は総力戦の解決法として忌み嫌われたわけですか。
ロシアは世界を革命する戦いが始まり、戦間期が無く、独特の進化(又は退化)がありますよね。
ss1945さん
御賢察の通りですね。
WW1の陸戦ドクトリンは捨て去るべき過去ではなくて、実は立ち戻るべき正論だったということなのですけれども、いきなりそう言われても素直には納得し難いものがあります。
舌足らずですが、事実としてそうなんだ、という話を続けたいと思います。
ねこ800さん
そうですね。首を傾げてしまいますよね。
火力戦主義は大規模消耗戦での正答なんですが、装甲機動戦主義は大規模消耗戦そのものを回避できる素晴らしい答案として大した中身が無いのに肥大して行ったので、現実の大戦争に適用してみると空理空論だった分だけ痛い目にあう訳です。
Sanngetallさん
まさに平時という軍人にとって厳しい時代を過ごす若手将校達にとって機動戦理論は魅力ある存在でした。この点で戦略爆撃論と良く似ていますね。
ソ連については、この国は仰る通り、革命後の内戦と干渉戦争でなかなか「平時」が来ないんです。
ただ、「願望」とばかりは言い切れないと思います。
当時の軍人としては、航空機や戦車の発達があと5年早かったら(戦争が発達を促した面はちょっと置いといて)そもそも悲惨で無様な塹壕戦自体が起こらなかった、と考えていたのでは?
塹壕戦(泥沼の長期戦)は、火力の進歩とそれに比しての機械力の未発達がもたらした戦争史上のエアーポケットであり、克服されねばならないし既に克服されつつある、ってのがモノを考える軍人の常識だったのでは?
第一、20年後にもう一遍世界大戦やるなんて、誰も考えてなかったろうし・・
>塹壕戦(泥沼の長期戦)は、火力の進歩とそれに比しての機械力の未発達がもたらした戦争史上のエアーポケットであり、克服されねばならないし既に克服されつつある
そうです。
これはまったくその通りなんです。
でも、それは現実にならなかったし、最後には忌み嫌った「第一次世界大戦」に立ちかえれた者だけが生き残れたので、やっぱり理屈の通らない「願望」だった、というお話がこれから続きます。
旧日本陸軍って砲火力を軽視したんじゃなくて非常に重視していたんじゃないでしょうか?
確かに太平洋戦争の島嶼戦で日本軍は重火器がなくて苦しんだとされていますが、戦史を斜め読みしただけでも、重火器を搭載した輸送船が米軍に沈められて揚陸できなかった話が普通にありますよね?
これって、砲火力を重視していたからこそ輸送船に重火器が乗っていたのではないかと。
だけどそれを送り届けられるだけの制空権がなかったとか、仮に送り届けられたとしても観測用の航空機もそのための制空権もなかったというのはまた別の話じゃないのかなあと思います。
西南戦争で当時の明治政府は火力が強いほうが近代戦に勝つという教訓を得た。という話をどこかで読んだことがあります。そうすると日本軍は歩兵の白兵戦重視ではなく、むしろ砲兵化と機械化を重視する軍隊になっていくのが自然な様な気がずっとしていまして、予算の問題があるにせよ、よく言われる日本軍は火力を軽視した。という話がいまいちしっくりこないんですよね。。。
ねこ800さん
太平洋の戦いについてはひょっとしたら後で触れるかもしれませんが、
模倣する側というものは、一般にあれこれ合理的に取捨選択することなく、
余計なものまで素直に真似てしまうものですね。
欧米と異なるドクトリンを採用できるほど我が国が進んでいた訳ではありませんから、基本的な考え方は一緒です。
ただ素直な弟子の立場から見て一番当惑するのは師匠たちが迷走していることなのでしょうね。
なるほど!
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