砲兵の仕事 11 (砲兵の衰退)

 第一次世界大戦は開戦時と休戦直前とではまったく異なる戦争が行われています。19世紀型の野戦が行われていた1914年の夏と、1918年の夏とでは戦場の風景そのものが違います。空では互いに航空優勢を争う大航空戦が繰り広げられ、地上では戦車が大量使用され始めます。1914年冬から3年以上続いた膠着状態の原因となった塹壕陣地も空陸一体の突破作戦が行われるようになるともはや絶対的な壁ではなく、各国陸軍は「突破作戦後に展開される機動戦」を強く意識するようになります。戦いは再び1914年以前の機動戦に復帰すると確信されていたのです。

 そうした流れの中で、砲兵は発達の頂点を迎えます。榴霰弾による直接射撃を主とする軽砲部隊だった野戦砲兵は大口径、長射程の重砲を大量集中して縦深制圧を行うようになり、歩兵の補助的存在から独自の戦闘を実施する高度な組織へと変貌しています。砲兵は今や歩兵攻撃の補助ではなく、多くの支援部隊によって支えられる突破作戦の中心的存在へと成長していたのですが、塹壕戦から機動戦へと戦いの様相が変わると予想され始めた1917年末頃から、野戦砲兵は機動への対応という古くて新しい課題と再会します。

 もともと砲兵にとっての機動性とは砲そのものの移動能力という観点と、直接射撃による近接支援から遠距離間接射撃による対砲兵戦、縦深制圧への自在な移行ができる火力の機動性という二つの考え方があります。身軽な軽砲で歩兵や戦車の急進撃に追従することと、長射程の重砲で近距離目標から遠距離目標まで自在に火力を集中することができること、野戦砲兵にとって機動性とはそのどちらか、あるいは両方の意味なのです。

 1918年中に各国陸軍は攻勢用の戦略予備として控える野戦砲兵を鉄道や自動車を利用して戦略的機動に対応させる準備を始めます。フランス陸軍は野砲兵予備を各砲200発の弾薬と共に1日100kmの速度で自動車輸送する体制を整えつつあり、新参のアメリカ陸軍は野砲兵の完全機械化を目指して機材の整備を急ぎ、戦術的な移動に関しては今まで機動戦に不向きだった野戦重砲さえも牽引トラクターを導入することで馬匹牽引の限界を超えて輸送できる見通しが立ちます。

 第一次世界大戦末期には各国陸軍で機能面では20世紀後半とほぼ変わらない機動砲兵が出現しつつあったということで、兵器そのものを迅速に移動させるという意味での機動性と戦場で射撃を遠近の目標に自在に集中できるという意味での火力の機動性が両立しかけていました。そして第一次世界大戦で登場した新兵器である戦車と共に前進できるよう、野砲そのものを自走化する試みも開始され、イギリス陸軍では60ポンド砲または6インチ砲をウィンチで巻き上げて搭載し、緊急時には車上でも発射できる装軌式のガンキャリアーが1916年から試作され1917年から実戦に投入しています。事実上、世界初の自走砲です。

 野砲兵の自走化は機動戦に対応するための理想でしたから、イギリス陸軍の試みだけでなく、フランス陸軍でも75mmから280mmまでの各口径の自走砲7種類が試作され、アメリカ陸軍も12種類の自走砲を試作しています。自走砲はドイツ陸軍でも研究され、休戦後も公式に開発が制限された1920年まで細々と試作が継続されている程です。こうした自走砲はまさに究極の砲兵として考えられています。

 馬の飼料のように嵩張らないガソリンで動き、移動しなくても決まった時間に餌をやり面倒を看なければならない馬と違って、走行距離に応じて整備すればよい自動車による砲の牽引はそれだけで革命的な効率を示していましたが、野砲の牽引が馬車からトラクターに移行し終える前に、早くもトラクター牽引に代わる最も合理的な形態として自走砲が出現し、大量に整備されつつあったのです。砲車を組み立てたり、砲を分解したりせずとも自分で走り回り、自分で陣地進入する自走砲が野戦重砲のスタンダードになりかけていたのが1918年です。「第二次世界大戦中、ドイツ陸軍はその20%程度しか自動車化されていなかった」といった話は何かの間違いのようにしか聞こえません。

 けれどもそれは事実です。第二次世界大戦開戦時、自走化された野戦重砲兵の姿など各国陸軍の何処を探しても見当たりません。そして軽砲の大半は19世紀と同じく馬匹牽引のままです。その理由は既に諸兄もお察しの通り、世界大戦が終わってしまったからです。ヴェルサイユ条約に縛られた敗戦国のドイツは当然として、大戦争で疲弊した戦勝国陸軍でも新たに野戦重砲を自走化して装備しなおすような予算は絶対につかなかったのです。

 しかも、驚くべきことに火力戦の主役であり縦深制圧の決め手であるはずの野戦重砲兵そのものが、大戦中に大きな犠牲を払いながら苦労して作り上げた火力集中を実現する高度な指揮統制組織と精緻な砲撃管制システムをも含めて、あっという間に消滅してしまうのです。1920年代の欧米陸軍野砲兵はまるでほぼ日露戦争当時の水準にまで衰えてしまいます。戦間期は砲兵衰退の時代なのです。その背景、理由はともかくとして、現実はこんな具合ですから「近代戦を学ばない」「理解していない」と馬鹿のひとつ覚えのように批判される極東の哀れな新興国陸軍などは、こうした情勢からいったい何を学べば良かったのでしょう。

6月 3, 2010   Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 第一次世界大戦, 陸戦

6 Responses

  1. 虎山 - 6月 3, 2010

    高度な砲兵ドクトリンを衰退させた元凶は、戦間期の予算不足という訳でしたか。
    ところどころで触れられていましたが、私には予想できませんでした。
    今回も、ためになる話を有難うございます。

    機械化された野戦砲兵1個師団を得るためには、馬匹牽引の砲兵師団何個分の予算を引き換えにしなければならないのか。
    そのバランスを考えると、当時の工業力で機械化は難しいのでしょうね。

  2. ねこ800 - 6月 3, 2010

    一番の敵は貧乏つうことを実感できなかったのが不幸かとw

  3. BUN - 6月 4, 2010

    虎山さん

    自動車の信頼性は現代とは比べ物になりませんが、戦車の原型が戦前型のアメリカ製トラクターだったように、技術的なハードルはそれほど高くはなかったし「やればできる」環境は当時からありました。
    あった、けれどもそれが為されなかった背景には、やはり思想的な問題があります。戦車の活躍史から戦史をかじり始めた私達には理想と思える新思想が現実にはどんな働きをしたか、実際にはどんな考え方だったのか、そのあたりが面白いところです。

    ねこ800さん

    予算が無いなら、身の丈に合った小さな規模で理想を実現して次世代へとつなげば良いだろうと考えてしまうんですが、そうはならない。それはどうしてなんだろう、というお話を続けたいと思います。

  4. toto - 6月 5, 2010

    いつも楽しく読ませていただいています。
    何を学べば良かった、と言えば改めて状況を見れば、
    砲兵は歩兵よりも弱い存在に戻っていた。
    そして大戦後半の強さを取り戻すのには時間がかかることも
    わかっていた。
    自国の砲兵が同様な強さを手に入れることは難しい。
    ならば敵が強くなり切る前に勝つしかない。
    こんな思いはなかったのでしょうか。

  5. Sanngetall - 6月 5, 2010

    すべての戦争を終わらせる戦争の後に、高度な砲兵システムなどいらんのです。総力戦なんて2度と起こらないのだから…
    そう考えてた時期(1920年代)がありました。
    第1次大戦の結果が20年の休戦に過ぎない、と想像するほうが難しいですよね。

  6. BUN - 6月 6, 2010

    totoさん

    ありがとうございます。
    戦間期の日本陸軍は欧米陸軍がどっちの方向へ進もうとしているのか、よく観察していると思います。
    そして学ぼうとすればする程、迷ったことでしょう。
    当時の装甲機動戦という思想はそれ程、矛盾を抱えていて、薄っぺらいんです。

    Sanngetallさん

    仰る通りですね。
    あんな戦争はもうないだろう、二度とやりたくない、というのが当時の雰囲気ですものね。
    けれども全く役に立たなかったド級戦艦は生き残って予算を無駄に食い潰し続け、使いこなせなかった戦車も、実績が振るわなかった戦略爆撃機も発達を続けたのに、実績抜群の野戦重砲兵だけがひどく廃れてしまったとしたら、その背景はなんだろう、と思う訳です。

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