砲兵の仕事 9 (戦車のいない突破作戦)
カンブレの戦いでは、戦車が砲兵の仕事を分担することで、砲兵に縦深制圧の余力を与えて塹壕陣地の突破に成功しましたが、結局、その後が続きません。逆にドイツ軍は対戦車陣地の有効性を確認し、近接航空支援の経験を重ねます。そして戦争は次の局面である、ロシア崩壊により東部戦線から兵力を転用できるようになったドイツ軍の1918年春季攻勢を待つことになります。
けれどもドイツ軍は塹壕線の突破に重要な役割を果たすはずの戦車を持っていません。カンブレであまりにも大量に捕獲したマーク4戦車を修理、整備して独自の戦車部隊を編成してはいましたが、問題になるような数ではありません。では、ドイツ軍はどのようにして連合軍の塹壕陣地に対処したのでしょうか。
ちょっと意外なことですが、物量を誇るはずの連合軍陣地を守る砲兵戦力は弱体でとてもドイツ軍の攻勢を粉砕するような大規模な砲兵戦を繰り広げるレベルではありません。それというのも、1914年冬以来、攻勢を繰り返して来た連合軍は防御に対してさほど関心が払われず、縦深防御戦術の研究が遅れていたことに加えて、攻勢時の大規模な砲兵戦力はそれこそ全戦線からの砲兵のかき集めによって達成されていたからです。しかも、連合軍の陣地前方はドイツ軍が構築していたような大規模で複雑な鉄条網を用いた障害物ではなく、比較的簡易なやり方で守られています。西部戦線の塹壕陣地は長く守勢にあったドイツ軍側が厚く、攻勢を繰り返してきた連合軍側が薄いのです。ということは、大攻勢があるぞ、あるぞ、とは思われていたとしてもドイツ軍は攻勢の主正面さえ悟られずに済めば、相当有利に戦える可能性があったのです。
このためにドイツ軍は攻勢正面の秘匿に関して今までに無い努力を払います。準備砲撃の短縮といった、1918年ともなれば古臭い手法までもがこの戦いについて回って語られるのはそのためです。戦術的奇襲を達成するために、一番目立つ航空兵力の機動集中に細心の注意が払われたのは既に別シリーズで紹介しましたが、砲兵の集中に関しても、本来は奇襲効果を得るために行う攻撃直前の集中さえもが、交通の混雑から察知されやすいとして排除され、砲兵は攻勢開始に先立って段階的に前線に送られ、厳重に秘匿されます。攻勢を秘匿するための工夫は以前から存在しましたが、1918年には秘匿の手法が一段と高度になっているのです。
もうひとつの変化は砲兵と歩兵の連携強化です。
春季攻勢に際してドイツ軍はそれまで東部戦線で実践しながら構築したモデルを大規模に西部戦線の戦闘に持ち込んできます。野戦砲兵は全兵力の20%程度が歩兵支援を主任務とする歩兵戦闘グループとし、野戦重砲を中心とした75%が対砲兵戦を主任務とする対砲兵グループに、残りを長距離砲グループと攪乱射撃用グループに振り分けます。この比率はドイツ軍が何を重視していたかを示すものですが、重要なことは各グループが柔軟に運用できるような工夫がなされていた点です。
前線に配置される観測将校と各歩兵大隊に置かれた砲兵連絡将校が、電話連絡網を使って前線から臨機に砲撃計画を変更できるように組織され、各砲兵中隊は専任の前線観測将校1人以上とペアを組み、流動的な状況に対応できる人員と権利が与えられています。そして砲兵指揮官達は歩兵部隊との連携を密にするために作戦の総合的なレクチャーを繰り返し受け、自分達が支援する部隊をよく把握できるようになっています。こうした組織上の変革は砲兵を塹壕線突破後につづく機動戦に対応させるための工夫で、事前の砲撃計画に基づいた射撃を行っていた連合軍と異なる部分です。
そして砲兵の射撃する目標も今までとは違った発想で決められます。
1917年までのドイツ軍砲兵戦術は連合軍と同じく敵陣一帯の「破壊」主義でしたが、1918年のドイツ軍砲兵は敵陣地や障害物の破壊よりも、敵の指揮所、観測所、通信拠点の破壊を優先して防御側の作戦指揮を混乱、麻痺させることを第一の目標に掲げています。
1918年春の攻勢で「短時間に抑えられた準備砲撃」とはこれらの敵神経中枢に向けた2時間の集中砲撃を指します。単に短く激しい砲撃だったのではなく目標が今までと違っていたのです。
1918年3月のドイツ軍には、たとえ防御陣地と障害物を破壊し尽くしても敵のC3Iを麻痺させなければ勝利はおぼつかないという明確な意識があります。奇襲効果を重視し短時間に急進撃するという発想の下で、攻勢に加わっていた少数の捕獲戦車部隊は歩兵に追い越されて後方に置き去りにされてしまいます。塹壕線の乗り越えに特化したイギリス式の戦車はドイツ軍のドクトリンにはあまり適合しなかったようです。そして前年から試作されて4月になって投入されたオリジナルのドイツ戦車A7Vにも活躍の余地がありません。そもそもこの戦車はひと目見れば理解できるように、性能はマーク4より優秀そうですが塹壕や障害物の突破には全く不向きな走行装置を持っています。おまけに遠望が利く操縦席からは肝心の車体回りがよく見えませんから砲弾穴にはまり込むのが関の山です。ドイツ軍が遠望が利き、走行中にも照準、射撃ができるある程度は乗り心地が良くて少しは足の速い戦車を何のために作ろうとしていたかは言うまでもありません。
ドイツ軍の攻撃は第一線陣地を破った後もイギリス軍残余が野砲兵と共に形成したストロングポイントの制圧にあまりこだわらずに部隊を前進させて行きます。これが浸透戦術です。ストロングポイント群の処理はその位置が特定されている限り、砲撃計画を前線から臨機に変更できる体制を整えた野砲の集中射撃で片付けられるか、無線で管制された地上攻撃機が超低空で精度の高い爆撃を行って潰してしまいます。イギリス軍の野砲兵は各ストロングポイントで善戦しますが、その多くは全滅または降伏の運命にありました。
こうして斬新な発想で開始されたドイツ軍の春季攻勢でしたが、奇襲構想は時間との戦いでしたから、時間が経過すればするほど連合軍側の兵力集中を招き、最初に航空優勢が崩れ、ドイツ軍自慢の砲兵部隊の足並みが進撃によって乱れることで突進力を失ってしまいます。もともと奇襲効果が持続する時間は限られていましたし、ドイツ陸軍航空隊は当時としては恐ろしく優秀な空軍でしたが兵力そのものは連合軍に大きく劣っていたのですから、この攻勢は最初から大きな賭けでした。
けれどもここで確認された「地上攻撃機は実に便利だったが砲兵が急進撃について行けなかった」という事実はそれから二十年以上も影響を残す戦訓となります。
そして1918年の夏を迎える頃には西部戦線に両軍の塹壕線が相変わらず存在していましたがそれはもはや絶対的な壁ではなく、新戦術と兵力集中によって突破可能な存在へとその意味を変え、大規模な反撃を準備していた連合軍も、疲れ果てて敗色濃厚なドイツ軍も、陣地突破の次のフェイズである機動戦を真剣に意識し始めます。
5月 25, 2010
Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 第一次世界大戦, 陸戦

4 Responses
なるほど。WW1における砲兵の役割というのは
1. 塹壕に対する直接攻撃(戦争前半)
2. 敵予備戦力を直接砲撃することにより、機動を阻止(連合国)
3. 通信、指揮系統を砲撃することにより、敵予備戦力の機動を間接的に阻止(ドイツ)
というふうに、より高度で回りくどい方向に進歩していったんですね。
問題は、砲兵によって敵戦力の機動を妨害したとしても、敵防御線を突破して迂回や浸透をするだけの機動兵力(機械化兵団?)がなかったことでしょうか。
戦車師団なんて夢のまた夢、自動車化歩兵師団だってほぼ不可能な状況では、快速兵団による浸透なんてムリなんでしょうか・・・・
扶桑さん
回りくどいというより、戦後の機動戦論の入り口と言うべきものかな、と。
第一次世界大戦中の高級指揮官達の頭の中に常にあったのは
1914年以前にあった「機動戦への回帰」なんです。
1915年からの3年間こそがそれこそ前代未聞の異常な時代なんですよね。
当時、一般的にそう思われていたことが、我々には意外に感じられる、ということなんだと思います。
「機動戦」はこれから切り拓かれる未来ではなくて、
過去に実在した戦争の「あるべき姿」だったんです。
カンブレーの戦いで、イギリス軍の何処が悪かったのかと悩んでいました。
> 1918年のドイツ軍砲兵は敵陣地や障害物の破壊よりも、敵の指揮所、観測所、通信拠点の破壊を優先
> 野砲兵と共に形成したストロングポイントの制圧にあまりこだわらずに部隊を前進
ドイツ軍が行なった浸透戦術を取れなかったことが、イギリス軍の失敗ということなのでしょうか。
と言っても、砲兵がついて来られないのでは、進撃も勢いを失ってしまいますよね。
この矛盾する問題を、どうやって解決するのでしょう?
虎山さん
カンブレは本当に色々な試みが詰まった戦闘で、
四百数十輌の戦車の三分の一位は特殊戦車です。
鉄条網突破戦車以外にも無線戦車があり、
突破後の戦車に補給するための補給戦車があり、
世界初の自走砲もあります。
それは
突破後の戦車隊と密に連絡を取りたい、
燃料弾薬の尽きた戦車に補給したい、
野戦重砲をどうにかして迅速に前に出したい、
という試みです。
しかも戦闘機の地上銃撃はカンブレ後には装備面でも徹底して来て
キャメルやその後継機が爆弾を搭載した戦闘爆撃機と化します。
空地協同ドクトリンも戦車援護を視野に入れるようになります。
おぼろげながらも答は見えていたんですね。
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