砲兵の仕事 7 (縦深制圧に向かう野砲兵)
長い間、直接射撃で歩兵を支援して来た野砲が鉄条網で守られ、機関銃を備えた塹壕陣地の前で力を失い、航空機の力を借りて何とか実用できる水準に達した間接射撃で塹壕陣地の制圧を試みても上手く行かず、大威力の野戦重砲を大量投入して攻撃正面の全てを破壊する地域破壊の構想も、塹壕陣地そのものの進化によってその有効性が疑われる事態となった1917年、砲兵戦術は連合軍にとってもドイツ軍とってもどちらも決定的な力を持ち得ないまま、戦術としてはどんどん精緻な駆け引きを必要とするものに変容しています。
戦術的な奇襲効果を失わないよう準備砲撃をあえて短縮するといった策は最初に現れたもっとも単純な手法でしたが、大規模攻勢そのものは両軍が実施していた航空偵察から隠し通せるものではないことが認識されます。航空写真偵察による情報は攻勢の兆候を物資の集積、新たな輸送路の出現、鉄道網の状況の分析を助けて、攻勢を数週間どころか数ヶ月前から察知できる時代が訪れていたのです。史実に残る大きな会戦はほぼ全て航空偵察情報で攻撃開始のはるか手前に察知されてしまっています。
陸戦に目を奪われた解説ではほとんど注目されませんが、当時の砲撃は敵陣直前の鉄条網破壊でさえ、航空観測に頼っています。厚みのある鉄条網を本当に破壊できたかどうか、地上からの確認は困難だったからです。このように敵陣の手前の一番近い目標である鉄条網の破壊から航空に依存していた以上、間接砲撃は全てその根本の部分で航空に頼っていたと評して間違いはありません。攻勢準備のための砲撃も航空頼みなら、それに対する反撃策も航空偵察に依存しています。第一次世界大戦の陸戦はすでに現代と同じく立体戦なのです。
こうした事情で鉄条網と塹壕陣地、野砲陣地を無力化するための何日にもわたる準備砲撃は奇襲効果に拘わらず採用され続けますが、砲撃されるドイツ軍側も黙って撃たれている訳ではありません。陣地を移動して被害を避けながら、やがて準備砲撃が止み、移動弾幕射撃による突撃支援砲撃に切り替えられるタイミングを察知して、塹壕にあふれて攻撃準備中の連合軍歩兵部隊に対して対抗射撃を浴びせかけるという痛烈な反撃が行われるようになります。突撃前に歩兵部隊が後方から進出し、あるいは掩蔽部から出て来たところの無防備な瞬間を高密度の激しい砲撃で叩いてしまう対抗射撃は突撃そのものよりも大きな損害を与えることが実感された結果、野戦砲兵戦術は技巧を尽くして相手を欺瞞する小技の駆け引きのウエイトが増して来ます。けれどもそれらの工夫は決定的な突破にはほとんど貢献しません。
そして地域破壊を実現するための長期の準備砲撃も連合軍にとって楽なものではありません。1917年7月のイープルでは半月にわたる断続的な準備砲撃で敵砲兵をほぼ沈黙させることに成功しますが、安定した砲撃が行えたのは最初の1週間だけです。砲撃が2週間目に入ると消耗による野砲の故障が相次ぐようになり、野砲は戦闘よりも自らの消耗によって戦力を失って行きます。物量を誇る印象のある連続砲撃は自滅と背中合わせの危険な賭けでもありました。
けれども地域破壊構想の下で大規模かつ精緻になった砲兵戦術は、敵砲兵陣地の位置を音響または閃光で探知するシステムの発達を促して、1917年にはイギリス軍の塹壕陣地には一定の距離ごとにマイクロフォンが設置され、ドイツ軍の砲撃があるとその発射位置を正確に特定できるようになっています。
その昔の名作漫画、松本零士「鉄の竜騎兵」の物語冒頭で陸軍の野戦重砲が一発撃ち込むと、すぐさま敵の対砲兵射撃が返って来て陣地を壊滅させる様子が描かれていますが、1917年に出現したのはまさにこうした状況です。
このように技術的には1914年の開戦時には存在しなかった様々なデバイスが投入されていたのですが、それでも重層化したドイツ軍の塹壕陣地を突破することはできません。巧妙な駆け引きと精緻な技術に支えられていても「やることが同じ」だったからです。
そんな袋小路の状況を打ち破る可能性を示したのが1917年11月のカンブレの戦いです。この戦いはイギリス軍戦車が400輌も集中投入されたことから「史上初の装甲兵力による突破作戦」と呼ばれ、戦車の集中投入による突破作戦の可能性を拓いた戦闘として有名です。そしてとりあえず塹壕陣地を部分的に突破した実績が注目され、突破作戦そのものの失敗は多くの場合、戦術的未成熟と旧思想の残滓がもたらしたと片付けられてしまっています。
けれども戦術的な研究が不十分で、旧思想に囚われていたと批判される総司令部が作戦前にイギリス軍担当戦線に広く分散配置されていた戦車を数百輌も集中できたのは何故なのでしょう。戦車戦術の推進者であるフラー大佐が提言したから、と説明されても、その斬新な提案がなぜ受け容れられたのでしょう。戦車による機動突破作戦などというものはフラー大佐の頭の中ですらおぼろげだったのに、あまりにも手間のかかる戦車の大集中が急遽、しかも大した議論を経ずに実行に移された理由は何なのでしょう。
この作戦がイギリス軍、ドイツ軍共に地上攻撃機の大規模投入という特徴を持っていることは既に紹介していますが、空地協同は当然の事として、地上軍でも歩兵、戦車、砲兵、騎兵の協同作戦という特徴があります。そのため、塹壕戦が始まって以来、役に立たない存在だった騎兵部隊までもが組み込まれていることから、カンブレの突破作戦構想を「旧式」「ありきたり」と即断する誤解があります。それはひどい勉強不足です。
イギリス軍の菱形戦車は路上を巡航してさえ60km程度しか走れません。これが悪路中の悪路である無人地帯のクロスカントリーと陣地突破時の複雑な機動(計画上でも実際でも菱形戦車はけっこう動き回ります。)を行えばその航続力は数分の一にまで低下します。そのために陣地帯の突破後は騎兵の機動に頼るしかないのです。騎兵の参加は旧思想の残滓ではなくイギリス軍がジークフリート線(ヒンデンブルクライン)を「本気で突破するつもりだったから」にほかなりません。だから戦車は騎兵用の架橋資材まで積み込んで出発したのです。
このように戦車が塹壕線突破後の機動戦転換を考えていなかったのなら、あまりにも大量に集められた戦車に求められ役割は何なのでしょう。
それは野砲兵の任務の肩代わりです。
カンブレ戦で準備砲撃が省略されたのは奇襲効果を第一に求めたからではありません。それまで野砲兵が担っていた準備砲撃による鉄条網の破壊と塹壕陣地の無力化を戦車と歩兵に任せたからです。特に戦車はその火力には大きな期待は求められず、その威力は鉄条網の破壊と除去に向けられます。マーク4戦車の火力発揮にあまり期待できないことは戦訓で判明していましたし、何よりもカンブレ前面のドイツ軍陣地は1916年のソンム戦以降の研究成果が反映された対戦車陣地だったからです。
戦車と歩兵の突撃はクリーピング バラージで掩護されましたが、野戦砲兵の射撃は敵塹壕線の破壊ではなく、その後方にあって攻撃を阻止する火力の源となる敵砲兵陣地と、攻撃側の歩兵にとって最も脅威となっていた敵歩兵の逆襲粉砕に集中されます。砲兵の戦闘は陣地線の破壊ではなく、縦深方向への制圧と向けられたのです。ドイツ軍は大量の戦車投入によって前線を突破されますが、イギリス軍が占領した前線陣地を奪い返されることなく安定して確保できたのはドイツ軍の阻止砲撃と歩兵による逆襲がイギリス軍砲兵による縦深制圧のため、ただちに実施できなかったことが大きな理由となっています。
野戦砲兵は地域破壊構想で大口径、長射程化し、砲兵同士の戦いは砲撃技術を進歩させ、それを土台として縦深制圧という突破作戦に最も有効な用法に集中するために戦車が用いられたのです。カンブレで突破が成功しかけたのは戦車があったからではなく、砲兵戦術が縦深制圧主体に改革されたからで、戦車の存在はその枠組みの一部でしかありません。本当に注目すべきはこの戦いで初めて砲兵が歩兵の直接支援を離れて縦深制圧に独自に動く、独立した存在へと踏み出したことなのです。
5月 9, 2010
Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 第一次世界大戦, 陸戦

4 Responses
とても勉強になります。
鉄条網と火点の制圧は、戦車の仕事。
敵砲兵の制圧と逆襲阻止が、砲兵の仕事。
大砲が届かない遠くの拠点は、航空機による阻止攻撃。
上記のような分業が、この時点で成立したということなのですね。
虎山さん
そうなんです。
この頃からイギリス軍の野戦砲兵は歩兵の従属物から独自に重要目標を叩く能動的な存在を志向するようになります。対砲兵戦は砲兵にとっての航空撃滅戦のような位置づけです。
いつも勉強させていただいています。
つまり、WW1後半の攻勢というのは
前フリ1 航空優勢の確立
前フリ2 航空観測を利用した砲撃により、敵砲兵を無力化
前フリ3 戦車、歩兵、騎兵の集中
という前フリがあり
本番1 砲兵は阻止砲撃によって敵防御戦力の機動を妨害
本番2 戦車による鉄条網の突破
本番3 歩兵と騎兵による浸透
という作業を行うということなんですね。
そうなると、この手の攻勢に対する防御というのは、どんな手段があるんでしょうか?
航空戦力や砲兵の劣勢がどうにもならないのなら、機動を妨害された状態でも移動しやすい軽火器を使って敵歩兵と戦車を阻止することになりますが・・・対戦車銃や対歩兵用の軽迫撃砲なんかの需要が、ドイツ陸軍で出てきたんでしょうか?
すごい。
書き手がサボっていると読み手が先回りする。
こんなブログがよそにありましょうか。
お見事です。
もうちょっとお待ちください。
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