砲兵の仕事 3 (砲弾大量消費時代)
さて、第一次世界大戦がどんな政治上の問題からどうやって始まったか、私はさっぱり解りませんが、連合国陸軍にとって世界大戦が勃発した直後からはっきりわかった事があります。それはイギリス軍やフランス軍の野砲部隊が装備する75ミリ級の軽野砲が、ドイツ軍の野砲部隊に配備されていた15センチ榴弾砲に威力の点で格段に劣り、射程でも圧倒的にアウトレンジされている、という現実でした。距離を置かれては射程が届かず、肉迫しては大威力の榴弾に撃ち負けるという、頭の痛い問題です。75ミリクラスの軽砲ゆえの機動性や発射速度の高さは野戦榴弾砲の火力を相殺できなかったのです。
それでも緒戦では野砲兵は何度も何度も敵前500m以下に躍り出て放列を敷き、敵弾を浴びながらも強力な榴霰弾射撃を行っています。銃火を浴びながらの直接射撃は野砲兵たるものの義務であり、開けた場所を突進してくる歩兵部隊には野砲が近距離で発射する榴霰弾は十分に有効でしたから、多少の犠牲は覚悟の上でした。ただ一つの誤算は肉迫射撃を行う野砲部隊は敵歩兵の強力な小銃一斉射撃や機関銃射撃で意外なほどに早く壊滅してしまうことでした。第一次世界大戦ですら歩兵は野砲より強いのです。しかも優秀で信頼性のある機関銃を装備したことで50年前よりもはるかに強力です。歩兵が砲兵より強いと何が起きるか、このあたり第一次世界大戦の陸戦における勘所かもしれません。
互いに移動しながら戦う機動戦で歩兵の進撃を「歩兵より弱い」野砲兵の直接照準による近距離射撃で止められない可能性が高くなると、歩兵の機動を妨げるのは機関銃の装備で強化された同じ歩兵の火力ということになります。防御側に立った歩兵はちょっと時間があれば穴を掘って地面に潜り込んでしまい、容易には潰せません。当然、野砲の直接射撃も手が出ません。攻撃側の力が防御側よりも小さいので、大した防御陣地ではないにもかかわらず、一旦静止してしまった前線は動かしようがなくなります。もともと19世紀後半から近距離直接照準で射撃する野砲兵とライフル銃装備の歩兵では野砲兵の分が悪かったのですが、第一次世界大戦ではそれがよりはっきりした形であらわれてしまい、野砲兵の側はそれまで理論的にしか知らなかった高度な戦術を他の兵科と協同で実施することを求められたのです。
けれども連合軍では野戦重砲の数は限られ、師団レベルには軽砲しかなく、集中的な間接射撃に必要な機材も組織も不十分、肝心の新しい砲兵ドクトリンは目の前に進展する前代未聞の事態に翻弄されながら暗中模索という有り様ですから、突如出現した連続する塹壕線を突破する策が見出せません。機材の不足と新しい状況に対応するドクトリンの不在が、お粗末で単純な初期の塹壕陣地を難攻不落にした最大の理由です。
結局のところ、一番強いのは防御に回った歩兵でしたから1914年の冬に出現した塹壕陣地線はそのまま敵にも味方にも互いに突破できない壁になってしまい、連合軍の反撃はどれも無残に失敗します。けれども現実に塹壕線を守り抜いている実績がある歩兵は十分に「精強」な兵科でしたから、あまり文句はつきません。するとこうした攻撃失敗の責任は砲兵支援の不適切という結論に吹き寄せられます。「もっと強力な砲兵支援を」という要望です。
こうした認識のために攻勢開始に先立ち、何日にもわたる準備砲撃が行われるようになります。愚直に長期間の砲撃を行うようになった結果、奇襲効果は望むべくもなく、攻撃正面はすぐに明らかになり、突破はより困難になりますが、ほかに手段がありません。戦争を続けるために今までの常識を外れた大量の砲弾が必要な時代が訪れます。さらに塹壕線だけでなく、その前に構築された鉄条網も突撃する歩兵を阻む強力な障害物であることが認められ、歩兵の火力では処理できない鉄条網の破壊のためにさらに砲弾が必要とされるようになります。鉄条網の破壊は1915年前半の野砲兵にとって重要な課題となり、1915年3月10日から12日にかけてのヌーヴ シャペルの攻勢ではその傾向が顕著に見られるようになります。
この戦いは1200mの攻撃正面に354門の野砲が配置されましたが、このような密度で狭い正面に砲兵を配置した真の理由は火力集中の実践ではなく砲弾不足でした。1915年の陸戦は砲弾の生産が追いつかないために大きく抑制されていたのです。そして野砲の火力は鉄条網破壊に注がれ、塹壕陣地攻撃には貴重な重榴弾砲が用いられます。その結果、大量の砲弾を注ぎ込んだ野砲の砲撃は鉄条網の破壊を成し遂げられたものの、肝心の塹壕陣地にはほとんど損害を与えることができず攻撃は失敗します。
というのも塹壕陣地やそこへの補給道路、軌道などは戦前の地図には絶対に記載されていない新しい建造物で、しかも攻撃側から見渡せるような場所に主たる塹壕線が掘られることは珍しく、普通は見通しの利かない稜線の向こう側の逆斜面に設けられていましたから、敵陣への砲撃は精密に作製された地図によるしかありません。その地図は偵察用飛行機が撮影した写真によって作成されています。ところが初期の軍用機が低高度で撮影してくる写真による砲撃地図はレンズの持つ歪曲とその補正法の不備のために正確とは言い難く、重榴弾砲による塹壕攻撃は無益な砲弾の大量消費に終わります。第一次世界大戦で砲兵支援用の偵察機が盛んに用いられた理由はこうした砲撃地図製作なのです。
こうして砲弾の消費量は激増し、1914年時に一会戦用に野砲の砲側に用意された砲弾は一門あたり約100発でしたが、1915年には300発となり、さらにどんどん増加して行きます。急速に増大する需要のために粗製乱造された野砲弾は暴発事故を繰り返し、フランス軍では開戦から9ヶ月の間に1440門の火砲が主に事故によって失われています。
第一次世界大戦の大砲撃戦はこのように誰も準備さえしていない状況で急に発生したもので、けして計画性のあるものではなかったのです。戦ってみて初めて判った防御に回った歩兵火力の強力さに驚き、攻撃側の歩兵突撃を阻む鉄条網の出現に悩んだ末に、ありったけの砲弾を注ぎ込むような戦いが始まり、その挙句に砲弾の不足が攻勢を抑制するという訳のわからない未知の状況に直面したのが1915年の陸戦でした。
4月 21, 2010
Posted in: ドクトリン, 砲兵の仕事, 第一次世界大戦, 陸戦

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