幻の航空戦ドクトリン策定委員会

 ヴェルサイユ条約下の軍備制限によって独立空軍の創設はおろか1機の軍用機を保有することさえ禁止されるという厳しい環境の中で、国軍の再建に着手したゼークトが最初に手を着けたのが前大戦で功績を収めた中堅将校達を各委員会に組織化し、その戦訓を研究させることでした。数十の委員会に分割されて実施された戦訓研究は世界大戦に参戦した諸国の中でも最大の規模で、ドイツ国軍にとってもこのよう本格的研究作業はシャルンホルスト以来、未経験のものでした。ゼークトは世界大戦の経験を集約し再評価することで次世代の航空戦ドクトリンを確立しようとした訳ですが、その大まかなテーマは次の4点でした。

世界大戦前に予想されなかった新たな状況とは何か?
そうした新状況に戦前の認識はどの程度有効だったか?
新しい兵器開発とその運用によって導き出された新たな指針は何か?
その中で出現し、未だ解決されていない諸問題とは何か?

 もはや存在しない「空軍」のための航空戦ドクトリン策定にこれだけの努力が費やされたこと自体に驚かされます。1919年から1920年にかけて世界大戦で第一線部隊を指揮した将校約400人はゼークトの指針に沿って各委員会と研究グループに分かれてその経験に基づいて討議した結果を簡潔で明解な報告にまとめ上げていますが、この時の諸研究で興味をそそられるのは研究の担い手が実戦経験のある前線指揮官であるだけに諸問題が具体的に捉えられている点です。

 たとえば地上部隊支援問題についての議論の中で、陸軍の各師団にそれぞれ固有の航空部隊を配属する問題が討議された際に、1個師団に必要な航空支援を与えるためには12機編成の偵察直協飛行隊1個と連絡飛行隊1個、地上攻撃飛行隊1個の合計42機を必要とし、さらに整備隊と補給隊、司令部、探照灯隊が必要という意見が提出されます。これは新生ドイツ陸軍の師団長はその指揮下に航空隊規模の飛行機とその支援部隊を持つということで、極端に言えば新生陸軍の師団長は空陸一体戦の指揮能力が必須だという究極の理想論です。

 しかしゼークトの下に結集した委員会は本物の航空戦指揮官の集団でしたから現実的な冷静さもあり、「そんな規模の航空部隊が師団に随伴して前線の限られた道路を使って前進し、迅速に基地移動できるのか?」(西部戦線の機動集中体験の反映を示す発言)「師団に常時随伴できる航空部隊の規模は偵察攻撃機1個小隊4機、連絡機1個小隊4機、砲戦観測機1個小隊4機程度ではないのか?」(委員達は実戦経験によって具体的に適正な機数が想定できたことを示す発言)「そもそも地上攻撃機は師団レベルに分散せず、軍単位で集中使用すべきはずではなかったか?」(「集中投入」ドクトリンの共有化ができていたことを示す発言)といった反論が生まれるといった具合です。

 また機種ごとの運用について、戦闘機については戦闘に投入する単位をどの程度の規模にすべきか(4個飛行隊1単位か6個飛行隊1単位か)といった問題や、1人の戦術指揮官が複数戦闘機グループを指揮できるか、といった戦闘機の集中投入に関係する議論が行われています。観念的になりがちなこの手の議論ですが、機上無線機の発達によって戦闘機隊であっても大部隊の統一指揮が現実味を帯びてくる中で、老練なエース達は指揮に専念して戦闘に加わらない空中指揮のスタイルに反発を感じていたらしいことなど、戦闘機隊員の気風を感じる部分も見られます。

 爆撃機については現状の爆撃機は敵戦闘機の発達により夜間爆撃を主とせざるを得ないこと、そして昼間爆撃は対空砲火と戦闘機の邀撃を避けるために最低、高度6000m以上で実施しなければならないことが論じられ、敵戦闘機の攻撃に対抗するための防御武装についても議論が交わされています。そして爆撃目標としては世界大戦で実績をおさめた鉄道操車場と補給拠点への爆撃作戦は今後も有効であること、昼間爆撃と夜間爆撃は両者混合で敵を24時間の間、爆撃の脅威下に置くべきことなどが確認されています。

 そして防空戦を戦った高射砲部隊からは1917年から1918年にかけての輝かしい戦果の陰で高射砲部隊はまったく標準化されない装備で悪戦苦闘していたのが実情だと語られ、1918年当時に25種にわたった対空火器の統一が求められています。当時の高射砲は段々と性能向上する爆撃機の飛行高度に応じて最低でも高度4000m程度の目標を射撃していたことと、今後も高高度射撃が重要となることなどが述べられ、さらに高射砲の万能性についての提言も付け加えられています。

 高射砲の万能性とは、野戦防空任務には優れた機動性が必須であるために高射砲部隊は機械化が進み、事実上ドイツ軍の中でもっとも機動力のある野戦砲兵となっていたことを指しており、「機動力のある88mm高射砲などを対戦車戦闘に投入できるように砲弾や射撃訓練を準備するべきだ」との主張に行き着きます。野戦高射砲の第二の任務を対戦車戦闘とすべきだという認識は第一次世界大戦の経験から生まれているのです。

 またゼークトの下に結集した航空関係将校の筆頭にあったヴィルベルクは自ら1918年の攻勢失敗から敗戦にいたるまでの破綻の原因について分析しています。ヴィルベルクはドイツ陸軍航空機部隊の戦力を低下させた最大の原因は航空機生産の不足ではなかったと述べていて、「旧式機から新型機への更新は1917年末頃まで一時的な機材不足を伴ったものの1918年春以降は新型機への更新がシステム化され、新型機の供給は円滑に実施されていたので新型機はむしろ余剰を抱えていた。しかし、その一方で燃料供給は極めて困難で1919年度の航空戦遂行は絶望的状況にあり、最大の反省点である。」と総括しています。

 そして航空戦敗北の第二の要因も航空機生産ではなく、深刻な乗員不足にあったと言うのです。ドイツ陸軍航空機部隊は世界に先駆けてパラシュートを標準装備した空軍ですが、1918年中だけで何人ものエースパイロットを含む数百人の乗員がパラシュートでの脱出を経験して生き残ったとはいえ、総合的な乗員不足は深刻で、結局、圧倒的な数の乗員を養成して戦闘に投入できた連合国に航空優勢を握られてしまったというものです。

 どこか第二次世界大戦末期のドイツ空軍を思わせるような報告の相次ぐ研究作業ですが、実体の無い、禁じられた空軍用のドクトリン策定がこのようなプロセスで大規模に行われていた点には十分注目すべきでしょう。その後の長い空白のあとナチス政権下で急速再建されたドイツ空軍が、なぜあれほどまで強力な存在となり得たのかを解き明かすには第一次世界大戦時の「Luftstreitkrafte」から継承した遺産の精査が必要でしょう。そしてこの遺産継承作業を組織的、情熱的に実行した中心人物がゼークトだったのです。

1月 8, 2009 · BUN · 7 Comments
Posted in: ドイツ空軍, ドクトリン, 第一次世界大戦

7 Responses

  1. 1GB - 1月 8, 2009

    すみません、質問です。
    「12機編成の偵察直協飛行隊1個と連絡飛行隊1個、地上攻撃飛行隊1個の合計42機」とは、偵察直協飛行隊12機、連絡飛行隊と地上攻撃飛行隊が各15機ずつ、合計42機と理解してよろしいでしょうか?

  2. king - 1月 8, 2009

    ほほぉ。委員会による遺産継承ですか、、。落ちがつきました。
    戦後に戦訓をシステマチックに検証するなんて、ドイツ人らしいですが、連合国は戦訓を戦中に検証していたように思えます。

    高射砲を対戦車戦に使うのはロンメルのアイデアだったというのは正しくない様ですね。

  3. BUN - 1月 9, 2009

    1GBさん、
    鋭い。実に鋭い。聞かれるかな、と思っていたことです。
    実はこの提案内容の詳細はわかりません。きっと地上攻撃飛行隊が少し大きいんだろうな、と想像するのみです。

  4. BUN - 1月 9, 2009

    kingさん

    戦訓研究はドイツでも日本でも随時やりますが、この委員会の構成は戦時中の第一線航空部隊高級指揮官のオールスターキャストなんです。ですから戦時にはできません。
    そして「野戦高射砲の対戦車戦闘転用」はロンメルのような前線指揮官の臨機の着想では無理なんです。落ち着いて考えてみれば「88mm用の徹甲弾がそこにあったのは何故だ?」と誰でも気が付いてしまいますものね。

  5. 1GB - 1月 26, 2009

    なるほど。
    消耗が大きそうな地上攻撃飛行隊は定数が多そうですね。
    お答えありがとうございました。

    色々な資料に目を通される方は、書いても書き尽くせないほどの知的な世界で遊んでいらっしゃるんでしょうねぇ…。
    いつの間にかWarBirdが再開されたようです。私ごときが参加できるような場所ではございませんが、いつもBUN様のお話しを楽しみにしております。

    遅くなりましたが、今年もよろしくお願いたします。

  6. king - 2月 10, 2009

    お忙しいのでしょうか?それとも資料集めでしょうか。次の記事を楽しみにしております。

  7. BUN - 2月 11, 2009

    御心配おかけします。
    新居を構えてもまだネットもTVも無い状況で、都内ホテルを泊まり歩いている有り様です。
    3月一杯はこんな調子になります。

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