ヒトラーと陸軍のドクトリン対立

 いままでドイツ陸軍の防御ドクトリンについて第一次世界大戦以来のドクトリンが受け継がれて来たことと、東部戦線最初の冬にそれが破綻したこと、それでも旧ドクトリンが廃されなかったことを紹介しましたが、前線の部隊と陸軍中央の対立の他にもうひとつの大きなドクトリン対立があります。それはヒトラーと陸軍の対立です。

 ドイツ軍の防御ドクトリンに関しては次のような流れがあります。

1. 第一次世界大戦前半までの単純な塹壕線方式
2. 損害減少を目的とした1916年末以降の「弾性防御」方式
3. 第二次世界大戦でも基本的に「弾性防御」を継承
4. モスクワ前面での「弾性防御」破綻
5. ヒトラーの死守命令と厳寒、兵力不足から拠点防御に移行
6. 1942年春の検証で陸軍は「弾性防御」を依然として堅持
7. 守勢戦線では兵員不足から「弾性防御」の実施困難

 ドイツ陸軍の兵員不足は深刻でしたが、それに輪をかけたのが予想外に強力なソ連戦車でした。もともと「弾性防御」は歩兵の攻撃を吸収撃退するためのシステムでしたから、戦車に対しては火力の集中によって歩兵を分離させた後、孤立した戦車を対戦車砲や近接攻撃で撃破する想定でしたが、T-34にせよKV-1にせよ、対戦車砲弾を受けつけない装甲を持っています。そのために敵の攻撃に1輌でも戦車が随伴していると防御戦闘はとんでもない犠牲を払うことになり、対戦車戦闘は「弾性防御」にとっても「拠点防御」にとっても大きな課題になっています。

 苦労して歩戦分離して孤立させたソ連戦車がバトルゾーンとして用意された主陣地での攻撃を撥ね退けて後方地帯まで突破してしまうことや、集落を取り囲んで設けられる全周陣地では対戦車砲を各方向に指向することが難しく、ソ連戦車は全周陣地から距離をとって周回しつつ防御の弱い方向から突入して来ることなど、有力な対戦車砲が88ミリ高射砲程度しか無いために発生する困難な事態に立ち向かうには近接攻撃しかなく、ドイツ軍が最も避けたい歩兵の大損害を覚悟しなければなりません。

 さらに都合の悪いことにはソ連軍はドイツ軍の防御線が兵力不足で十分な縦深をもって兵力を配置できず、前哨線や後方地帯は無人である場合もあり、主陣地であっても夜間などは百メートルにつき1人か2人しか配置されない場合があることや、集落や森の周囲に築かれる各拠点防御陣地には大きな間隙があって突破浸透が容易であることなどをよく分析してマニュアル化し始めます。強力な戦車に悩んでいる上に敵に内情を分析されていては防御戦闘がうまく行く訳がなく、1942年の中央軍集団、北方軍集団の防御戦は苦戦の連続となっています。

 ドクトリンの更新は拒絶され、かといって縦深と火力、小戦闘グループによる陣地内機動からなる弾性崩御を実施できるだけの兵員の量と質は絶望的という状況で、実質的に1916年以前の単純な塹壕線による防御しか実施できず、頼みの綱は砲兵火力のみという状態だった中央軍集団と北方軍集団の歩兵師団群でしたが、ここにまた強力な介入が行われます。それはヒトラーからのものでした。

 1942年9月8日、ヒトラーから防御戦に関する命令が出されたことでドイツ陸軍そのものが動揺します。それは「弾性防御」に伴う戦術的後退も禁じたためで、戦線を整理するという「弾性防御」実施の基盤となる動きも禁じられ、ミクロな部分では「弾性防御」による縦深陣地内での後退を含む機動も禁じられてしまいます。こうした極端な命令によってドイツ陸軍が第一次世界大戦以来、ずっと信奉して来た「弾性防御」ドクトリンが初めて大きく揺らぐことになります。

 ヒトラーが命じたのは自身が第一次世界大戦中に経験した1916年の塹壕戦の如く、敵の攻撃を第一線の塹壕前で火力集中によって粉砕することを理想としたもので、いわば「弾性防御」以前の防御方式に先祖がえりしたものです。かつてその戦術で大きな損害を出したために「弾性防御」を採用したのだとするドイツ陸軍中央にとって、この命令ほど理不尽なものはありません。

 それでも総統命令は絶対的なものでしたからさしものドイツ陸軍もこれを否定することができません。けれども消極的な反抗は行われています。塹壕線を強化するために膨大な量の有刺鉄線や対戦車地雷、対人地雷の要求を出した部隊もあり、これらが供給されるはずも無い量の機材が供給されないために命令が十分に実行できないというものです。

 ここで重要なのは防御ドクトリンをめぐるヒトラーとドイツ陸軍との対立は、新思想と旧思想の対立という訳ではなく、どちらも旧式な第一次世界大戦中の防御方式を主張していたことで、そこには革新的なものは何ひとつありません。あえてたとえるなら前大戦で一兵士だった独裁者の抱いた印象と、それを理論的、歴史的に理解していた将校達との認識の差が生んだ軋轢というべきものかもしれません。

 というわけで、南部戦線でドイツ軍最後の電撃作戦が戦われていた一方、中部、北部の戦線では総統の唱える勘違いと自己流解釈による塹壕線方式への賛美と、陸軍が固執する、もはや戦況が実施を許さなくなっていたことを棚に上げた教条主義的な旧式ドクトリンがぶつかり合っていたということで、ただでさえ重苦しい東部戦線の物語を一層陰鬱にさせる展開でもあります。

8月 8, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: ドイツ軍の防御戦ドクトリン, 陸戦

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