牽引式対戦車砲の再評価

 アメリカ陸軍戦車部隊がチュニジア戦で初めて実戦を経験し、その戦訓から編制の改変を迫られたのと同じく、戦車部隊の強力なライバルとして華々しく投入されたタンクデストロイヤー部隊も窮地に立たされます。

 チュニジア戦初期に投入されたタンクデストロイヤー大隊はハーフトラック式の75mm自走砲 M3GMCと通常のトラック搭載37mm砲のM6GMCの混合編制でしたがこれらは戦闘のたびに大きな損害を受けながらも十分な戦果が上げられず、特にM6GMCは火力面でも砲の取り回しの悪さからも到底戦力にならないと判定されて前線から引き上げられてしまいます。

 タンクデストロイヤー大隊の不成績に対して戦車派のデヴァース少将はチュニジアから帰国した際に全タンクデストロイヤー大隊の解体を主張します。タンクデストロイヤー大隊が戦場で殆ど役に立たなかったことは周知の事実でしたから、チュニジア戦線のアメリカ陸軍指揮官の多くはこの主張に同意していました。そのためにタンクデストロイヤー大隊の解体案は一旦受け入れられますが、タンクデストロイヤー派の旗手、マクネア中将の猛反発によってタンクデストロイヤー大隊の解体は中止されます。マクネアが戦車師団の編制に介入したように戦車派もタンクデストロイヤー大隊の解体を試みるという明確な対立が1943年春に頂点に達したともいえます。

 しかしマクネアは自ら育成したタンクデストロイヤー大隊について戦車派とは別の結論を持っていました。エルアラメインの戦闘でのイギリス軍6ポンド砲部隊の活躍を非常に高く評価したマクネアは現状の自走式部隊よりも牽引式の対戦車砲部隊の方が砲兵本来の姿であると主張し始めます。せっかく自走化され、しかも戦車タイプまで配備されつつあった時期であることを考えるとマクネアの発想は奇異に思えますが、中途半端なハーフトラックやトラックの荷台に搭載した砲よりも安定して射撃できる牽引式対戦車砲の戦闘力を評価する砲兵的視点に重きを置いたもので、砲兵の理屈としてはある程度の真実味がありました。

 マクネア自身としては1942年夏のエルアラメイン戦で自ら予見していた(と本人は主張する)対戦車砲部隊の運用を確信し、北アフリカに送られたタンクデストロイヤー大隊が実戦を経験する前に牽引式への転換を決意していましたから、実戦での大損害を体験してもそれを不適切な自走化により本来の戦力が発揮されなかったという説明に行き着きます。これは偽りではなくマクネアがタンクデストロイヤーセンターに牽引式対戦車砲の再研究を命じたのは1942年10月で、米軍の北アフリカ上陸前のことです。部隊の運用試験は1943年1月1日に命じられています。これも「カセリーヌ峠」以前のことです。

 チュニジア戦の戦訓でタンクデストロイヤー部隊の装備は全て戦車タイプのM10GMCへと置き換えられる予定となっていたものをマクネアの牽引式再評価によってひっくり返されたことはタンクデストロイヤー部隊の中からも反発を招きます。自走式のタンクデストロイヤー大隊を牽引式の装備に改変すると新たに300名もの兵員を必要とすることや、船舶に搭載する際の手間など良い事は何一つ無いという当たり前の反論ですが、マクネアは牽引式タンクデストロイヤー大隊から偵察小隊を削ることで編制の肥大化に対応させ、強引に牽引式への装備改変を実行に移します。

 せっかくM10GMC装備の方向にあったタンクデストロイヤー大隊を牽引式に改変してしまうという前線の部隊にとって何の魅力も無い計画はどんどん進捗し、1943年3月31日には15個大隊を牽引式に改変する決定が下され、1943年11月には全タンクデストロイヤー大隊の半数を牽引式に改変する計画となります。そして5月7日の編制改正で偵察小隊の削減も標準化され、実質的な戦車大隊となりつつあったタンクデストロイヤー大隊は機動力を大きく損ない、偵察能力も失った牽引対戦車砲大隊に成り下がる運命にありました。

 そして1943年末、牽引式編制の最初の大隊、第805タンクデストロイヤー大隊が編成完結してただちに前線に送られます。その結果は当然のことながら惨憺たる評価で、牽引式大隊はこれ以降編成中止となっています。第805大隊も前線から下げられて今度はM18GMCという、これもまた厄介な車両をあてがわれて終戦まで戦い続けることになります。

 M18GMCはマクネア達が重視した機動力を最大限に求めた結果、登場した高速タンクデストロイヤーでM36の弟分のような小型車両でしたが、非常に高速である反面、装甲は極めて頼りなく、しかも車内スペースは最低水準でしかなく大きな砲を扱うには全く不足という、実に扱いにくい「戦車」でした。第805大隊は数あるタンクデストロイヤー大隊の中で最も装備に恵まれなかった部隊と言えるかもしれません。

6月 30, 2008 · BUN · 4 Comments
Posted in: タンクデストロイヤーとは?, 陸戦

4 Responses

  1. ペドロ - 6月 30, 2008

    本当に様々な識見がぶつかり合いながら、必死により良いものを目指していたんですね。
    結果論でものを語ると、見えなくなるもののなんと多いことでしょうか。

  2. BUN - 7月 1, 2008

    おっしゃる通りです。
    戦車のようでいて戦車と呼ばれない戦車は戦車とは別の系統で進化して来たもう一つの戦車でその母体は砲兵だったというわかったようなわらかないような話です。タンクデストロイヤーとは戦車発達史の中の有袋類のような存在ですね。

  3. カモ - 7月 4, 2008

    いきなり牽引砲まで戻してしまうのは凄いですね。
    米軍では突撃砲や無砲塔の駆逐戦車はどのような評価だったのでしょうか?

  4. BUN - 7月 4, 2008

    それですね。
    M3GMCが突撃砲的な射界制限があったことと、TDのドクトリンが自然に「戦車」につながり得るものだったことなど、アメリカ独自の事情を勘案すべき問題なのかもしれませんね。

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