Aシリーズが雑多に見える理由

 アメリカ陸軍航空隊の攻撃ドクトリンは1926年の訓練教程440-15以来、1935年までの10年間にわたって公式の改正はありません。ほぼ第一次世界大戦型の攻撃ドクトリンがそのまま生き続けていたわけですが、攻撃機部隊の中では第一次世界大戦後の空軍思想を反映して非公式なドクトリンが育ち始めます。これらは正規のドクトリンではありませんが、各年度に実施された演習の実績や理論の発展を採り入れたもので、新しいドクトリン成立の基礎となるものでした。

 旧ドクトリン下のアメリカ陸軍攻撃機は機関銃と小型爆弾を主な武装とした単発機、もしくは双発機が望ましいとされて来ました。人員殺傷は地上銃撃で、軽度の防御を施した施設へは小型爆弾で対応するという第一次世界大戦の延長線上にある軍用機がAシリーズの攻撃機でした。敵陣地への攻撃にはこれで十分だったからです。1924年の演習では第三攻撃集団の攻撃機が25ポンド爆弾での急降下爆撃を実施するなど新しい戦技の実験も行われていますが、戦闘機隊が実施した急降下爆撃は容認されても、攻撃機隊が実施した急降下爆撃は従来の低空攻撃よりも高度を高くとる必要があるので対空火器による損害が増大するという理由で否定されてしまいます。

 1926年から1935年までは技術的な停滞期でもあり、さらに世界恐慌の時代とも重なって空軍にとってはつらい時代でしたが、この10年間の間にアメリカ陸軍航空隊にも大きな変化が起きています。それはどこの国の航空部隊にもほぼ共通の空軍独立問題です。空軍の独立といっても組織として空軍を独立させることだけを意味しません。フランス空軍のように独立空軍としての組織を持っていてもその部隊が陸軍の指揮下にある場合もありますし、日本の陸海軍航空隊のようにほぼ独立した空軍としての体裁を持ち、独自の航空作戦を実施できる実力と権限をある程度確保している場合もあります。アメリカ陸軍航空隊もその流れの中で空軍としての独自の作戦を明確に指向し始めます。

 それを象徴するのが敵空軍に対する攻撃です。敵陣地攻撃を主任務としていた攻撃機部隊の任務に敵空軍の飛行場攻撃を付け加えるべきであるという意見が多数派を占めるようになり、1930年代前半には攻撃機部隊の任務は航空阻止攻撃に加えて敵飛行場攻撃や敵上陸用舟艇攻撃、さらに重爆撃機による大規模爆撃作戦を実施する際の敵対空火器の制圧にまで広げられます。中でも重視されたのが敵飛行場攻撃です。

 敵の飛行場を叩き、敵空軍そのものを地上で撃滅するという発想は戦略爆撃と同時に出現したもので、1920年代に登場した空軍独立論者達が唱える空軍の運用はほぼ共通して戦略爆撃と航空撃滅戦を二本の柱としています。純粋に軍隊としての空軍独立はこの二つの機能のどちらかでも実現する権限と実力を得ることだと言い換えることもできるでしょう。

 このような大きな潮流の中にアメリカ陸軍航空隊も置かれていたわけで、攻撃ドクトリンも航空撃滅戦概念を採り入れたものに変化してゆくことになります。訓練教程440-15の改正は1935年に行われ、攻撃機部隊の主任務は大きく変わります。それは次のようなものでした。

1. 地上での敵航空機と基地施設の破壊
2. 沿岸防御における敵舟艇と兵員の攻撃
3. 友軍航空作戦と協同した対空火器制圧
4. 戦線後方における敵部隊と補給、連絡システムの破壊

 こうしたドクトリンの改正に伴って、攻撃機部隊が装備すべき機種も変ります。今までは機関銃と小型爆弾が武装の主体だったものが、破壊効果の大きい大型爆弾を搭載できるより強力な機体が求められるようになってきます。しかも敵戦線後方の目標だけでなく、敵飛行場攻撃や上陸用舟艇攻撃、比較的長距離を飛ぶ重爆撃機の作戦を支援するための対空火器制圧といった任務をこなせる機材としては、単発の地上攻撃機よりも行動半径の大きい双発の軽爆撃機が重視され始めます。

 爆撃法も従来の超低空攻撃から通常の水平爆撃照準器を用いた中低高度の爆撃法へと移行します。現有の攻撃機の装備する簡素な爆撃照準器では超低空爆撃はできても水平爆撃法による精密爆撃は不可能で、命中が期待できません。本格的な軽爆撃機はこうした面でも必須の機材でした。これがAシリーズのアメリカ軍用機に双発の軽爆撃機が生まれた理由です。A-20などの優れた軽爆撃機が「攻撃機」に分類されている事情はこんな感じです。

 ドクトリンの進化に伴って1939年、陸軍航空隊戦術学校に設けられていた「Attack Section」は「Light Bombardment Section」と改称します。攻撃機部隊は軽爆撃機部隊と定義されたのです。同じく1939年には陸軍航空隊は将来的に各種爆撃機が持つべき行動半径を定めています。

重爆撃機 行動半径 5000マイル
中爆撃機 行動半径 2500マイル
短距離爆撃機 行動半径 1500マイル
攻撃機 行動半径 500マイル~700マイル

 A-20は攻撃機の枠を超えて短距離爆撃機の領域に迫る爆弾搭載量約1トンで行動半径1200マイルの機体で、性格を一新しつつあった攻撃機部隊を象徴する高性能機だったことがわかります。けれどもこれで攻撃機部隊の装備が双発爆撃機一色に染まったかといえば、ご存知の通り、様々な単発機が使用され続けます。

 地上部隊の直接支援要求を断れる空軍など無く、多くの空軍で重要かつ切実な問題として扱われたことは他でも紹介しましたが、アメリカ陸軍も独自作戦としての間接的な支援任務を主体にドクトリンを構築していたものの、地上部隊の直接支援を拒絶することはありません。けれどもスペイン内戦や第二次世界大戦初期に得られた情報から直接支援任務には従来の攻撃機ではなく、高性能の単座戦闘機を戦闘爆撃機として採用することが望ましいとされ、その結果、採用されたのがP-51戦闘機を地上攻撃機に改修したA-36です。地上攻撃用の装備も持ち、その実績もあるP-51になぜかAナンバーのバリエーションが存在するのはこうした理由です。

 もう一つの新しい単発の機種として導入されたのが急降下爆撃機です。1941年のギリシャ、クレタ戦の様相から攻撃機部隊も地上攻撃用の小型爆弾ではなく中型爆弾を高い精度で投下できる急降下爆撃機の導入を1941年秋から検討し始めます。急降下爆撃機を装備する一番の近道は海軍の艦上爆撃機の転用です。Aナンバー攻撃機に海軍のドーントレスやヘルダイバーの陸上型が含まれているのはそのためです。

 さらに旧ドクトリンの下で育った従来型の単発攻撃機も部隊に残っています。全ての任務を双発爆撃機によって担うことは第二次世界大戦前には予算的にも戦術的にも無理がありましたから、直接支援任務用機種として戦闘機転用でも艦爆転用でもないモッサリした我々になじみの薄い地味な攻撃機や改造攻撃機がAナンバーの中に残っています。

 このように新しいドクトリンが攻撃機部隊の装備する機種を大型化、高性能化する一方で、独立空軍としては足枷に思えるけれども、本質的に無視できない地上部隊の直接支援用機種として、戦闘機、艦上爆撃機が新しく導入され、さらにそこには旧ドクトリン下で生まれたコンセプトを引き継いだ単発攻撃機も存在し続けていました。こんな事情があったのでAシリーズの軍用機は旧思想の攻撃機、新ドクトリン下の双発爆撃機 第二次大戦緒戦の分析で新規導入された戦闘爆撃機と艦上爆撃機という一見雑多なジャンルとなっています。各機の性能要目を読み比べてもAシリーズ軍用機の定義やその特徴がさっぱり理解できないのは、Aシリーズの軍用機の要目が1920年代から延々と続く攻撃ドクトリンとその進化の歴史を反映しているからだ、というお話でした。

6月 6, 2008 · BUN · No Comments
Posted in: アメリカ陸軍航空隊

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